74.「孤独」ということ その2  神谷湛然 記

/  74.「孤独」ということ その2

 「孤独」の問題を引き続いて考えてみたいと思う。
 一人で生まれ、一人で死ぬという人がいる。一方で、人間は群れから離れては生きられない存在だという人もいる。
 釈尊は、「自らを灯とし、法を灯としなさい」と諭した。これは前者の「一人・・・」に関係するかと思われる。一他方で、縁によってあることも説いた。これは、後者の「人間は群れ・・・」に該当するかと思う。この相対立するような言句をどのように考えたらいいのだろうか。私は次のように理解している。
 ‘宇宙開闢以来の無量無辺無数の関わり合いの中に私たち一人一人が生きてあり、そのことを自分自身が他に頼ることなく、身をもって感得することだ’と釈尊は言いたかったのではないかと。
 釈尊は家出して出家した。なぜ、なに不自由ない王家を捨てたのだろうか。それは、釈尊には本当の意味での家族は無かったからではないかと思う。子を親のいいように育てるという支配・被支配の上下関係だったということと、自然や周りから隔離されて閉じ込められたからえはないだろうか。そういう閉鎖的抑圧的な家族関係から逃れて人のあるべき姿を求めたのだと思う。それを釈尊は修行者集団である叢林(そうりん)というところに家族に準じた場に安息を得たのだと思う。そこには、師匠が弟子を教育し、望ましき型を作っていくという上下関係ではなくて、釈尊も弟子とともに互いに切磋琢磨して成長しあっていく関係だったはずだと考える。だからこそ、後に、念仏につながる阿弥陀思想や「空」を展開する中観ないし般若思想、諸法実相を説く法華思想、心的作用を分析する唯識論、融通無礙の因縁を説く華厳思想、不立文字の先駆けとなる密教思想、戒や律によって身心を正しく保つという律思想や‘小乗’思想など、百花繚乱に仏教が展開されたのではないかと思う。それでも、「諸行無常 諸法無我」の刹那生滅の視点は一貫している。月を指し示す指に過ぎない言葉でもって人々に如何にわからせるか、という苦労の賜物だと私はみている。教条に陥ることなく、生き生きとした現実を生きるために、上下関係なく助け合い理解しあい励ましあう安心した自由な場こそが「孤独」からの解放になるのではないかと思う。
 「孤独」は、人間の逃れない本質ではなく、時代によって作られた観念であること、そして、私たちが感じるところの「孤独」は人間本来の家族や共同体によって解消されるだろうということである。
 私自身は毎日、朝食前と就寝前に神だなと仏壇にお参りして挨拶する。三度の食事を妻と向き合って合掌して‘いただきます’と言って食事する。そして、食べながら団らんを楽しむ。夕食には、まず、ビール(ノンアルコールなのだが)を互いに乾杯していただく。食べ終わったら合掌して‘ごちそうさま’。上下関係なく、ズケズケ言いあう。片づけ・掃除・洗濯などの家事も協力してやっている。気兼ねなく安心した、意思疎通の

できる自由な場作りを心がけている。安心と信頼こそ最も幸福であり、「孤独」にはならないと思っている。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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