/ 84.浄土と往生について
歎異抄の解説本を読んで気になることがあった。浄土と往生についての捉え方である。
浄土とは、私たちが生きているこの世で‘弥陀のはからい’に任せて念仏すれば死んで後に行く所であり、そこには阿弥陀仏がおられるのだと書かれてあった。また、往生とは死んで後に浄土にまいることをいうのであって、生きているこの世では往生できないということだった。
浄土も往生も死んで後の‘あの世’のことであって、この世でできることは、ただひたすら弥陀の本願に任せて生きるしかない、あの世で初めて仏となって大慈大悲心でもって一切衆生を救えるのだと説いておられ、と解説してあった。
私はそれに対して次のように考えている
弥陀の本願を信じ、弥陀のはからいにまかせ切ったところに既に浄土となり、往生してしまっていると理解する。浄土真宗によく見られる妙好人の姿は、彼らが凡夫のままで仏・菩薩になったといってよいのではないかと思う。
歎異抄によれば、罪悪深重の、何一つ善を為し得ないこの身は接取不捨の弥陀の本願を信じて弥陀のはからいにまかせる他ない、その時、弥陀は憐れんでこの身を救い取って浄土へ往生させて下さるのだ、と親鸞は仰せられたという。私は、ここには親鸞は浄土やそこへの往生は死んで後のあの世のことだとは一言も言っていないように思える。宗教が人生の苦悩を解決するのが任務だとするならば、生きているこの世において安心安住させて然るべきだと思う。
私たちの生きているこの世で、絶対他力のありように、既に浄土が現れ、その浄土に往生しているのだと言うべきだと思うのである。そして、その人は釈尊を含めたあらゆる仏や菩薩、法然や親鸞などの上人、達磨大師や道元などの禅師などと同位同列の信心を持った存在であることを知るべきだと思う。
臨済義玄の‘仏を殺し、祖師を殺し、・・父母を殺して・・はじめて解脱を得る’という「殺仏殺祖」の公案は信心のありようを私たちに問いているように思うのである。

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