/ 32.念彼観音力ということ
観音経普門品偈には「念彼観音力」というフレーズが繰り返し述べられている。この言葉の詳しい説
明は、観音経の冒頭に出てくる次の一節にあると思う。
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聞是観世音菩薩 一心称名観世音菩薩 即時観其音声 皆得解脱」(是の観世音菩薩を聞いて、一心に観世音菩薩を称名すれば、即時にその音声を観じて、皆、解脱を得る)。
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それに続く文には、‘もし是の観世音菩薩の名を持つ者は’とか、‘是の観世音菩薩の名を聞いた者は’とか‘観世音菩薩の名を称える者は’、目前の苦悩から救われるという内容を展開している。
では、観世音菩薩とは何だろうか。
私は「2.般若心経を読む」において、観世音菩薩について書いた。般若心経を玄奘より早く漢訳した鳩摩羅什は‘観世音菩薩’としたのを、玄奘はそれを‘観自在菩薩’と訳した。自由自在なるありようを意味していると捉えたからだといわれている。私は、観音経全体を見ても、その経典の最後あたりにある、「自在之業 普門示現」、すなわち、‘自在なるありようと働きが普くいたるところに現れている’ということだ。
ある仏教学者は、鳩摩羅什が‘観世音菩薩’としたのは、‘観世音菩薩を一心に称名した時、即時にその音声を観じて皆解脱を得ん’からだとしている。私は、「即時観其音声」の観じる主体は‘観世音菩薩’ではなくて、「百千万億衆生」だと考える。なぜなら、「一心称名観世音菩薩」とは‘自由自在に働いている宇宙真実と寸分違わず一枚になる’ということであり、その時、「即時観其音声 皆得解脱」、すなわち‘諸々の苦悩を受けた人々はその宇宙真実の自在なるありように気づかされてすべての者が苦悩から解放された’ということである。「音声」を‘宇宙真実の自在なるありよう’としたのは以下による。
‘観世音菩薩’の原語であるサンスクリット語では、‘アヴァローキテー シュヴァラ’となっている。‘アヴァ’とは‘普(あまね)く’、‘ローキテー’は‘見る’、‘シュヴァラ’とは‘自在’という意味である。この‘シュヴァラ’を鳩摩羅什は‘音’とし、玄奘は‘自在’とした。私は、鳩摩羅什漢訳の観音経にある「音声」や「音」を玄奘に習って‘自在’とした。
以上から、‘もし是の観世音菩薩の名を持つ者は’とか、‘是の観世音菩薩の名を聞いた者は’とか‘観世音菩薩の名を称える者は’を、私は、それぞれ、‘自在なるありようを実現している者は’とか‘自在なるありようを耳にして自分もそうなろうとする者は’とか‘自在なるありように一枚になろうとする者は’と解釈できるのではないかと思う。
このようにして考えてきた時、「念彼観音力」とは、‘自由自在に働いている宇宙真実のありよう、その宇宙の自在なる働きと一枚になるならば’と理解できるのではないかと思っている。
単に口で‘観世音菩薩’と唱えば苦しみがなくなるというのは、あまりにも虫がよすぎるのではないだろうか。おまじないではなく、自在なる宇宙真実と透明い一体となることが「念彼観音力」ではないかと思っている。

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