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3.[空]から「如是」を考える
般若心経をはじめとする般若系の経典は「空」という概念を用いて教えを展開している。有名な言葉は「色即是空空即是色」であろう。「空」は、実体がないとよく訳されるが、虚無主義・ニヒリズムに陥ってしまいそうな感がしてしまいそうである。鴨長明依の「法丈記」にある‘行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。’を連想して世をはかなく思い沈んでしまいそうである。平家物語の‘祇園精舎の鐘の声沙羅双樹の花の色’も同様であろう。平安末期の没落しつつある貴族公家階級の悲嘆を歌っているように私は感じる。勃興しつつあった地方武士階級にあっては鎌倉仏教や美術にみられるように生き生きとしたルネッサンス的な写実的力感に溢れていたのである。「空」には本来肯定否定もなくセンチメンタリズムでもヴィヴィド(溌剌)でもなくただそれだけである。金剛般若経には‘応無所住生其心’という一句がある。中国禅宗六祖恵能がその一句を聞いて悟ったということでよく知られている。「如是」という言葉は見当たらない。諸法実相を説く法華経でも「如是」はなかったように思う。ただ、諸法実相はすべての世界をありのままに見るというころであるから、「如是」に相当するであろう。そしてその世界は「唯、仏と仏とのみ、乃ち能く、諸法の実相を究め尽せばなり。」と、唯だ仏のみが知るという。思慮分別で推し量る琴はできないということである。ものごとの実体を決めつけたがる我我人間に対して、般若経は「空」と一刀両断し、法華経では‘ただ仏と仏のみぞ知る’と但し書きしたのである。法華経の冒頭において、永い瞑想から目覚めた釈迦が弟子に発した第一声が「所不能知 意趣難解」であったことは象徴的である。「空」を法華経からみたならば、アタマではわからないナマの現実を「空」といったのであって、虚構だとか無意味的存在とかいっているのではないということである。あなたのアタマで思っていることこそが虚構であり、にせものだということだ。したがって、[空]は、思慮分別で推し量ることのできないナマの実体と訳したいと思う。
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