/ 35.信心銘 その2
信心銘 11
一切二邊、妄自斟酌、
夢幻空華、何勞把捉。
得失是非、一時放却、
眼若不睡、諸夢自除。
(私訳)
一切の二見は、自分勝手に妄想してあれこれと思慮分別することにある。
実体のない無自性なるものごとに対する一切の二見は、夢まぼろし・錯覚でしかないのに、その夢まぼろしを何とか捉えようと苦労する。
得した失くしたとか、これは是・あれは非だなどという二見を一気に放り出すことだ。
一切の二見の束縛から解放された眼が二見への捉われにくらまされることがなければ、すべての夢は自然と消滅する。
信心銘 12
心若不異、萬法一如、
一如體玄、兀爾忘縁。
萬法齊觀、歸復自然、
泯其所以、不可方比。
(私訳)
ものごとのありように二見という相対立する異なった見に執着しなければ、すべてのことは宇宙いっぱいの真実という一如となる。
宇宙いっぱいの真実という一如が体現すれば、あれやこれやを追いかけて振り回される因縁から一気に解放される。
すべてのことを二見を立てずにそのものをそのものとしてただ見るならば、おのずから一如に帰っていくのである。
すべてのことが一如であるという理由をいろいろと言うのならば、価値判断や思慮分別してものごとを比べてはならない。(あれかこれかと比較して二見を立てる世間のありさまに陥ってはならない。)
信心銘 13
止動無動、動止無止、
兩既不成、一何有爾。
究竟窮極、不存軌則、
契心平等、所作倶息。
(私訳)
(動とは差別とか分別のこと。止とは無差別つまり平等とか無分別のこと。) ものごとの差別をやめたら差別はなく、無差別を否定して差別にすれば無差別はなくなる。(平等は差別であり、差別は平等ということ。価値の上下がないという意味で平等であり、それはそれとしえ他とは違い・区別があるという意味で差別がある。目は目ぎりで一如であり、耳は耳ぎりで一如である。)
二見は元から決まって成り立っているのではなく、宇宙いっぱいの真実という一もこういうものだと言ったり考えたりしてわかるものではない。思慮分別を越えたところに一があるのだ。
徹底的に行き着いたところ、すなわち宇宙いっぱいの真実には、これといった決まった、固定したものはない。(すべては無自性で空だからである。)
心が一如という平等にかなえば、自分勝手な思慮分別や思い煩いは同時にやんでなくなっていく。
信心銘 14
狐疑淨盡、正信調直、
一切不留、無可記憶。
虚明自照、不勞心力、
非思量處、識情難測。
(私訳)
狐のような疑い深く、疑心暗鬼なのがさっぱり無くなれば、一切の邪法が尽きて決定(けつじょう)して身心が素直に調う。
一切の法(ものごとやありよう)は一瞬として決まったものとして留まってはいない。(無常無我無自性である。)ゆえに、これはこういうものだと捉えて認識して記憶することはできない。(一瞬たりとも把捉でいないのだ。)
宇宙いっぱいの真実は二見にけがされることなく、純一無雑にはっきりとおのずから私たちを照らしている。この一如に照らされるままに任せば何の心の苦労もなく一如に至るのだ。
宇宙いっぱいの真実という一如は考えたり思慮分別したりするところを越えた所にあり、思い量るのは困難だ。
信心銘 15
眞如法界、無他無自、
要急相應、唯言不二。
不二皆同、無不包容、
十方智者、皆入此宗。
(私訳)
宇宙いっぱいの真実というこの如如としてある宇宙いっぱいの世界は自他の分け隔てなく、一枚である。
あえて相当する言葉で言うなら、価値判断や思慮分別して二見を立ててものごとのありようをある決まったものとして固定して捉えようとすることのできない、非思量ゆえに、ただ、‘不二’と言うだけである。
真如の不二というありようはそれも皆等しく、無自性・空であり、一切を覆い包んでいる。
宇宙いっぱいの真実の道に至ったあらゆる真実智を持った者は皆、この不二という根本真実の世界に入る。
信心銘 16
宗非促延、一念萬年、
無在不在、十方目前。
極小同大、忘絶境界、
極大同小、不見邊表。
(私訳)
不二という根本真実は一瞬という短い時間とか永遠ともいえる長い時間とかいう時間の長短に関係なく、今が今ぎりにそれがそれとしてあり、一瞬一瞬の如如たる不二は、限りなく永い永遠の不二とともに同じ不二だ。(今が永遠であり、永遠が今だ。)
存在するのかしないのか(これは善だ、あれは善はなく悪だ・これは悟りで、あれは迷いだ、というような分け隔てすること)という分別を越えて‘本来無一物’としてあり、宇宙いっぱいのあらゆるところの不二は目の前の不二とともに同じ不二が現前している。(宇宙いっぱいが真実の自己であり、真実の自己は宇宙いっぱいなのだ。)
目に見えない極小の微塵も広大な宇宙そのものと同じ、宇宙いっぱいの真実という真如であり、どこからが小であってどこからが大なのか、その境目は絶えて意識に残らない。
極大たる広大無辺な宇宙も微塵と同じ宇宙いっぱいの真実という真如であり、のの辺から大きいというのか、どの辺から小さいというのか、分からない。
信心銘 17
有即是無、無即是有、
若不如是、必不須守。
一即一切、一切即一、
但能如是、何慮不畢。
信心不二、不二信心、
言語道斷、非去來今。
(私訳)
有は無であり、無は有である。有と無は別々にあるのではなく、有と無が表裏一体となっている。(‘色即是空 空即是色’であり、無常無我・無自性かつ自由自在に活発発地に新陳代謝して輝く生命のありようは言葉でいうなら矛盾せざるをえない。)
もし、この‘有是無 無是有’でないなら、かならず不二という道理を保たない。(不二という道理はあるはずがない。)
宇宙いっぱいの真実という不二は一切のものにあり、一切のものは宇宙いっぱいの真実という不二である。
ただよく、‘一即一切 一切即一’であれば、広大無辺な宇宙いっぱいの真実にどっしりと落ち着けばよい。
宇宙いっぱいの真実を疑いなく受容するということは不二であるということであり、不二とは宇宙いっぱいの真実を疑いなく受容するということだ。
不二とはどういうものかは言葉では語れず、手元に得られず、思慮分別して知るということを超越したところにある。過去から今、今から未来に続く時間などない。捕捉できない一瞬の今しかない。今ぎりにそれがそれとしてあるだけだ。(赤ん坊の私、子供の私、青年の私、得度後の私、横浜にいた私、現在の私、いちいちの私は違ったありさまだ。千変万化して流転している。世間的にはすべては私というだ、すべてこれが私だという決まったものはない。今ここを離れず、即今に生きることである。)

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