/ 98.焼身自殺に思う
仏教徒のなかには焼身自殺を肯定する意見がある。特にチベットや中国、韓国、東南アジアで、仏教弾圧や権力に対する抗議のしるしとして焼身自殺する僧侶がいる。この行為を褒め讃える人がいるが、これは武士道で言うところの‘腹切り’という切腹自殺と同様に‘死’を美化する思想にみえてしまう。そこには生きることへの意味を放棄しているように感じる。
法華経の薬王菩薩本事品には、薬王菩薩の前世である一切衆生喜見菩薩が仏と法華経を讃嘆して自身の体に香油を縫って自らに火をつけて焼いて捨身供養した話がある。法華経を聴受したおかげで現一切色身の三昧の力を得ることができたのだと考えた一切衆生喜見菩薩はこの上ない法華経の法への最高の感謝のしるしとして自身に火をつけて焼身供養した。それは、自ら燈明となって世界を照らされたという。身命を惜しまずに法を求めて法華経に讃嘆供養されたということである。
またジャータカと呼ばれる釈尊の前世を叙述した本生譚(ほんしょうたん)には、釈尊の前生がウサギの時に食べ物がなくて飢えている周りの動物たちや人のために自身を燃える火の中に飛び込んで焼肉となった話がある。他のために自身を供養したということである。これは、「自未得度先度他」、すなわち、‘自らいまだ得度せざる先に他を度すべし’とする菩薩の姿として敷衍される。
仏教者として言うならば、仏教僧の焼身自殺は仏法への讃嘆供養としての捨身供養であるべきだと考える。弾圧や暴力に対する抗議として行うならば、供養ではなくて相手に対する憤りと憎しみを助長させるだけだと思う。そこには仏教ないし仏法に対する讃嘆と感謝の念が感じられず、憤怒と憎悪にしかないように思う。よく目にする僧侶の焼身自殺は、クーデターを起こそうとしない自衛隊に業を煮やして割腹自殺した三島由紀夫と重なって見えてしまう。そんな焼身自殺は仏法でもなんでもなく、政治運動の一つにしか過ぎないようみ見える。
そもそも焼身自殺の源流はヒンズー教に支配されるインド社会に古くからあるサティと呼ばれる‘寡婦殉死’にあるようである。夫に先立たれた妻は、夫の亡骸が火葬されている火の中に飛び込んで夫とともに焼かれて死んでいくことを美徳とされた伝統があるようだ。夫の最後まで夫につき従うという男尊女卑の産物のように感じる。そのサティ観念が仏典やジャータカにある‘捨身供養’と重ねられて焼身自殺は尊いものだと一部の仏教徒が思うようになったのだろうか。
やはり私には、焼身自殺は‘捨身供養’とは似て非なるものと思ってしまう。

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