/ 36.「受諸苦悩 聞是観世音菩薩 一心称名 観世音菩薩 即時観其音声 皆得解脱」について
観音経の冒頭あたりに
「百千万億衆生 受諸苦悩 聞是観世音菩薩 一心称名 観世音菩薩 即時観其音声 皆得解脱」
という語句がある。
これは鳩摩羅什が漢訳したものであるが、中村元によるサンスクリット原典からの現代語訳によれば以下のようになっている。
「この世において、幾千万の国におよぶ生けるものどもがそれぞれにおいて苦しみを受けているが、もしも彼らが観世音菩薩大士の名を聞くならば彼らはすべてその幾多の苦しみから解き放たれるであろう。」(中村元『現代語訳 大乗仏典2 法華経』東京書籍)
また、植木雅俊による『法華経 サンスクリット原典現代語訳 下』(岩波書店)でも、「観世音菩薩」を「自在に生きる者である偉大なる人である菩薩」と訳している以外はこの中村元による和訳に準じている。
漢訳の和訳では、同書で中村元は、
「もし百千万億の衆生ありてもろもろの苦悩を受けるに、この観世音菩薩を聞きて一心に御名を称えなば、観世音菩薩はただちにその御名を称える音声(おんじょう)を観じて皆まぬがれることを得せしめん。)
としている。
漢訳の解釈はこれに準じるのが通例となっているようである。
漢訳の和訳とサンスクリット原典からの和訳とを比べた時、私には印象が違って見える思いがする。とくに、「一心称名 観世音菩薩 即時観其音声」は鳩摩羅什があえて入れ込んで漢訳とした感じが否めないと私は思ってしまう。
「聞是観世音菩薩」と「一心称名」の主語は「百千万億衆生」であることは明確だが、以降の「即時観其音声 皆得解脱」の主語は和訳によれば「観世音菩薩」となっている。漢訳からは主語は「観世音菩薩」と読めるが、「一心称名」に続く「観世音菩薩」を「一心称名」の目的語として私は読む。なぜなら、「皆得解脱」の主語はサンスクリット原典からみるならば「百千万億衆生」なる「皆」だからである。ここに私には、鳩摩羅什が無理に「一心称名 観世音菩薩 即時観其音声」を入れ込んだ工作が露わになっているように見えるのだ。
「観世音菩薩」のサンスクリット語は‘アヴァローキテー・シュヴァラ’であり、その意味は‘普(あまね)く観察される自在’であることは以前に私は記した(「32.念彼観音力ということ」参照)。ゆえに唐代の玄奘三蔵は‘観自在菩薩’と漢訳したのだった。私はさらに踏み込んで、「観世音菩薩」とは‘諸行無常 諸法無我’であり、‘空’であり、凝り固まったもののない自由自在に働く生命の生身の姿のことだと言いたいと思う。
私は問題の箇所を次のように現代語訳したいと思う。
‘この世で苦しみのかたまりにいる人たちが自由自在なる生命の生身の姿が世界の真相であることを耳にして、心を虚しくしてその自由自在なる生命の生身の姿を観じるならば、すべての人は苦しみのかたまりから解放されるだろう。’
そして、‘自由自在なる生命の生身の姿を観じる’とは、一心称名であり、只管打坐であり、虚心に祈ることだと思っている。イエスはそれを‘神の御心のままに’とか‘父よ、私を御手にゆだねます’と言われたのではないだろうか。
苦しい時は苦しい。つらい時は本当につらい。しかし、その苦しみやつらさは思いや関わりのなかで生じている。元から存在しているものではない。湧きたつ雲のようなものだとよく形容される。自然災害にしろ、政治や経済・社会による苦しみにしろ、家族関係にしろ、いろいろな関わり合いのなかで苦悩が生まれたり消えたりしている。釈尊は、苦の原因は‘我’というありもしない実体を実体と認めてそれに捉われることだと説いている。つまり、思い込みや観念、つくりごとが苦悩の元だということである。善悪・是非・上下・優劣・貴賤・貧富などもともとなく、すべてが絶対本質として尊いということだ。イエスはそれをわかりやすい言い方で‘隣人を愛しなさい’、‘お互いに愛し合いなさい’と言われたと思う。
日本や世界の今の状況を鑑みた時、イエスや釈尊などの賢者の声に真剣に耳を傾ける必要が大きいように思う。

コメント