/ 37.「即時観其音声」について
前項の、‘36.「受諸苦悩 聞是観世音菩薩 一心称名 観世音菩薩 即時観其音声 皆得解脱」について’に追記して、「即時観其音声」について私の見解を別の視点から述べたいと思う。
「即時観其音声」の主語は「百千万億衆生」ではないかと前項で述べた。そして、「其音声」は、通説では「一心称名」する「百千万億衆生」の音声だとしているが、私は「其音声」の「其」は「観世音菩薩」のことではないかと思う。
普門品偈の終わりあたりに、
「妙音 観世音 梵音 海潮音 勝彼世間音」
という語句がある。その箇所にあたるサンスクリット原典からの和訳は、植木雅俊による『法華経 サンスクリット原典現代語訳 下』(岩波書店)によれば、
「自在に見る者(観世音)は、雷雲のような音声(おんじょう)を有し、太鼓のような響きを具え、大海のようなとどろき(海潮音)を持ち、ブラフマン神の美しい声(梵音)を具えています。このように音声(おんじょう)の領域で完成に立ち切いり、自在に見る物を念ずるべきであります。…(略)・・・そ(無量光であるアミダと)同様に、その自在に見る者もまた世間の人々の指導者であり、この三界にはその人に等しい者は存在しません。」
以上から、「其音声」とは、「観世音菩薩」の「妙音」なる、「梵音 海潮音 勝世間音」なる「音声」のことではないかと私は解釈する。
また、「観」とは、‘見られる’とか‘知らされる’というような、受け身の感覚意識作用のニュアンスがある。主体の外から働きかけられて気づかされるということである。こういうことから、「観」の主語は「百千万億衆生」であり、その「衆生」が「観世音菩薩」の発する「妙音」「梵音 海潮音 勝彼世間音」なる働きに気づかされる、ということだと私は読む。
これはまさしく、道元禅師のいう‘仏のいえになげいれて’坐禅するありようであり、親鸞上人の‘弥陀の本願にまかせて’ただ念仏することであり、イエスの‘父よ、私を御手にゆだねます’ということではないかと思う。
「観世音」の「音声」は、雷鳴や海の轟きのような大音声であり、小鳥のさえずりであり、草木のそよぐ音であり、暴風雨であり、心地よいそよ風にゆれる音、さらに人やいろいろな生き物の声など、千差万別の音声だということである。「観世音」の自由自在なる働きを「音声」で表現したものだと考えることもできよう。
ただ、「観世音菩薩」の原語である‘アヴァローキテー・シュヴァラ’には、‘あまねく見られる自在’から、「音」とか「音声」は‘自在なる働き’と解するほうがいいように思う。

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