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8.戦争と人間について
ここ最近、日本では中国の台湾侵攻や北朝鮮のミサイルへの驚異、そしてロシアによる北海道攻撃への心配まで出てきてもうすぐ東アジアでは戦争が起こるような雰囲気である。
私は以前五味川純平の「戦争と人間」という小説を読んだことがあった。視覚障害なのでライトセンターから音声録音図書を借りて読書したのであるが、三一書房文庫版で全18巻もあってとても長かった。しかし、壮大なスケールと歴史実証に裏打ちされたこの小説は老若男女やいろいろな民族や階層の人間模様が織り合いながら展開されていて、夢中で完読することができた。満州事変への導火線となる張作霖爆破事件の起こった昭和3年から戦後まもないの東京極東軍事裁判の昭和23年ごろまでを描いている。昭和初期の日本の風潮は銀行や会社の倒産が相次いだ昭和恐慌という経済不況、汚職にまみれ党利党略に走る政治に対する不信、深刻な財政赤字、抬頭する軍部と排外的ナチョナリズム、思想・言論規制ないし弾圧、貧富格差の拡大、鬱屈した世情・・・。どこか今の日本と煮ている気がしてならない。日本の自信拝復のために唱えられた八紘一宇と大東亜共栄圏。この戦前の亡霊が擡げてきているようである。アメリカの‘make Ameriva great again’トイウアメリカ第一主義、中国の中華思想一帯一路、ロシアの大ロシア主義、かっての大英帝国など同じようなものであるが。歴史は強大な国家の誕生とその滅亡の繰り返しをしるしているが、現代世界の争いは依然と違って地球生命の滅亡を孕んだものとなっていることである。一度戦争が起こったら止めるのは困難である。ロシア・ウクライナ戦争がそのよい例である。そして、東アジアにおける戦争は、中国・北朝鮮・ロシア・日本や韓国や台湾に展開するアメリカの核保有国間の核戦争になる危険性のきわめて高いエリアで起こるという意味である。戦争が起こったるやむをえないということではなく、戦争を絶対に起こさせないためにどうすべきかを考えるべきである。その視点が政治指導者といわれている人には欠けているようである。世間の風潮にもそのような傾向がる。国防という名のもとに対立を煽って大量殺人破壊兵器生産配備に勤しんでいる。軍事何にかけられる百兆円ものものお金が貧困・気候変動・食糧・教育福祉・地球生命のための対策などに投ぜられたらどんなに発展的だろうかと思わずにいられない。
歴史において、戦争を起こす国に二つのタイプがあるようである。富の拡大を求めての拡張主義と国内問題に対する不満のはけ口としての対外戦略である。ローマ帝国やサラセン帝国・モンゴル帝国・大英帝国は前者であろう。戦後世界におけるアメリカも然りであろう。それに対して昭和初期の日本・現代中国・ロシアは後者であろう。今の日本もその傾向がみられる。日本よりはるかに政治的経済的軍事的科学技術的に上をいってしまった中国、日本より国民所得が上の韓国や台湾に対するコンプレックスは日本人のプライド喪失感と排外主義的ナショナリズムを醸成しているようである。維新の会の躍進はそんな日本の産物といえるかもしれない。それは‘戦後レジームからの脱却’を掲げてポツダム宣言受諾行こうの戦後日本の歩みに疑問を唱え、新自由主義的金融資本主義を目指しているようであるからである。その象徴が憲法9条の否定・なんでも民間にという公的サービスのへの削減とIRカジノ構想であろう。‘自立した個人’を旗印にして福祉や公共サービスを削り、ギャンブルで国を富まそうという国家的ヤクザ組織になろうとしているのではろうか。
鬱屈した風潮を解消する建設的な方法は何なのか。豊かさを物質的経済的指標に置いた価値観からの転換だと私は思う。豊かさとは何なのか、幸せとは何なのか、何のために生きるのか、なぜ死ぬのか、そもそも私たちは何者なのか。原点にに立ち返って考えなければならない時代になっていることは確かである。
私は維新の会を悪く言い過ぎたようである。しかし誤解してほしくないのは、維新の会が諸悪の根源といっているのではないということである。私たち現代人に巣食っている物質的経済万能主義である。18世紀の産業革命からのインダストリアリズムはよくも悪くも人間を経済合理性人間に育てた。マルクス主義も同類である。。荘子の「無用の用」は彼らには理解不能であろう。無意味無価値と思われていたのが実は深い意味があり大きな価値がある、よく心得た人はこのことを知っている。微生物があるからこそ有機物を分解して森や作物の栄養となり、新鮮な酸素と糧を私たちに恵にをもたらしている。太陽があり、地球が生きているからこそ私たち人間も‘許されてある’ことに思いを馳せるげきであろう。「ぽつんと一軒家」というテレビ番組がある。経済合理性から見れば許されない現象であろう。経済合理性では割り切れない裳のが人間であり生命であり宇宙である。
多様な豊かさ、多様な幸せ、多様な生き方、多様な死に方、多様な人間と多様な生命。この多様な縁のおかげでそれぞれが生きあって存在している。そのことを思ったとき、戦争して殺しあっている意味がどこにあるのかということになるのではなかろうか。お互いが認め合って共存し、よりよい地球のために協力していく。喧嘩を売るのが好きな政治指導者がはびこる現在、世界が私たちひとりひとりが‘対立より対話’を一層促進するよう努めることが本来あるべき多様性の証しではなかろううか。
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