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9.再び戦争と人間について
先日、自民党の重鎮がある講演会で「戦える自衛隊」を訴えた。北朝鮮のミサイル発射や台湾侵攻の危機、ロシアの北方領土でのミサイル訓練などが念頭に発せられたとの報道であった。対外脅威論は今に始まったことではないが、メディアの論調ををみると一刻も早く立派な日本の軍隊を作らないと日本は大変なことになるみたいである。ところで日本経済新聞によると2023年度の中国の国防予算は7.6%増の26兆円にのぼるという。世界に冠たる人民解放軍に自衛隊が対応できそうもないのは明白であろう。本当に対応しょうとするなら核武装しかなさそうである。日本が核武装したならば世界中に核武装が普遍化するであろう。確実に地球破滅へのカウントダウンは一気に早まるだろう。核爆弾の威力は抜群である。数億円で核弾頭ミサイルができるじだいである。巨大な軍備費が必要でなく、一発で何百万人ものの殺戮と大量破壊をもたらすことができるといわれる。北朝鮮の金正恩はそのことを理解しているであろう。核弾頭が原子力発電所に投下すれば天文学的な破壊と放射能汚染を与えることができよう。すでにウクライナ戦争で原発がミサイル攻撃の危機に晒され続けている。戦争に倫理や規範なるものがあった試しがない。虐殺略奪強姦虐待連行は日常茶飯事なことは歴史が教えている。
石川達三の「生きている兵隊」は昭和12年ごろの日本軍の南京攻略戦線を描いたるポタージュ小説である。中央公論社の通信員として日本陸軍に同行した作者が実際に見聞きしたことは想像以上のショッキングなことであった。小説のの冒頭は中国人捕虜を沼地で立たせたまま後頭部を拳銃で脳髄を蒔き散らして撃ち殺して沼地に頭から投げ捨て、二本の足が空に向かって突っ立っているシーンである。一介の民だった兵士が恐怖と不安、独善的な軍事組織論理のなかで次第に理性と倫理を失って虐殺略奪強姦恐喝破壊を行為していく様を生々しくリアルに描き出している。南京大虐殺のあったとされる南京陥落までの話であるが、戦線の生々しさは五味川の「戦争と人間」を超えている。大半が×の伏せ字で昭和13年に中央公論から発行されたが即刻発禁処分となり、石川も有罪となって刑務所に収監された。日本陸軍の逆鱗に触れたという。戦後まもなくに全面刊行することができたという。私にとってほかに印象的な場面は、中国人民家から奪ったものをみやげ物として日本に持ち帰るのだと自慢して見せびらかしたり、冷える夜の野営にベッド代わりに敵の死体を何人も並べてその上に平然と寝るということであった。戦争は人間を狂気にする。ロシア兵のウクライナにおける無軌道な行為は戦争のなせるわざであろう。国や民族を問わず善人とされる人も狂人となることを石川は揺れ動く微妙人間心理を描写しながらな冷静に客観的に書き出している。
昔も今も人々は戦争に勧善懲悪を見がちであるように思う。‘北朝鮮が悪い、中国が悪い、ロシアは悪い。日本、アメリカ、G7は善の国だ’。立場が変われば逆になるであろう。中世ヨーロッパにあった十字軍遠征と同じである。ならず者を懲らしめるために戦争をするというのが古今東西に一貫した論理である。相手の立場に心を馳せ、相互理解と相互協力を図る。人間関係と同じである。相互信頼がない限り戦争はなくならないのは明白であろう。善の使者を気取る政治指導者とその眷属が現代の国際社会にはびこっているさまは反吐がでるようである。対立ではなく協力できないのか。そもそも民主主義とは様々な意見を調整しながらよりよき社会を作ろうというものであるはずである。すべてのものには多面的側面がある。なにがいいのか、国によっても民族によっても人によっても立場によっても、また時代によっても違うことを賢者は教えている。沢木耕太郎の「深夜特急」、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」、リービ英雄の「天路」李琴美の「彼岸花の咲く島」や「ホラレスが降り注ぐ夜」「星月夜」、笹倉明の「海を超えた者たち」、「アラビアン・ナイト」、さまざまな神話や宗教に関する書籍などがそのことを叙述している。なお、「アラビアン・ナイト」は「千一夜物語」を抜粋編集したものであるが、10世紀ごろの強大な帝国をつくった当時のアラビア人の思考や他民族に対する蔑視感などがうかがわれて面白い。まともな人間はアラビア人だけだといわんばかりで、現代のどこかの国に煮ていて反面教師のように見える。
物理学者アインシュタインと精神分析学者フロイトとのやりとりの書簡「人はなぜ戦争をするのか」がある。1932年というファシズム抬頭の前夜のころである。当時の国際連盟から、今(1932年)直近の課題について一人の相手を選んで論議しあって提言してほしいとの依頼がアインシュタインに来た。彼はその課題をいかに戦争を防ぐことができるのか、を洗濯し、論議の相手にフロイトを指名した。現在でも色褪せることなく現代国際問題に訴えている。しかし、彼らの提言にもかかわらず第二次世界大戦は起こり、戦後も朝鮮戦争・キューバ危機・ベトナム戦争・中東戦争・湾岸戦争・アフガニスタン戦争、そしてウクライナ戦争などが起こった。これからは日本を含めた東アジアでまもなく戦争が起こるだろうと賑やかに叫ばれている。彼らの提言は無力だったのだろうか。私はある意味では然りであり別の意味では否とみる。アインシュタインのいう国際調停機関を設置しても、大国がはばをきかせて拒否権を乱発して機能不全に陥っている。国際連合の機能不全の有様は無力感に催なまされるばかりである。第二次大戦の勝者である五か国米ソ英仏中が常任理事国となって拒否権をもっている。そして今のこの五か国のみが公然と核保有を是認されている。力の横行である。インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエル、そしてイランも核保有せんとするのはある意味では従属なき自立した力を持たんとする意志の現れだといえるかもしれない。また、フロイトは、文化の発展によって本能が知性によってコントロールされ、本来もっている攻撃・破壊行動を内に向けることができるという。しかしAI時代になろうとする今の時代でも無差別殺人事件がやまず、第三次世界大戦がおこるような気配が漂っている。私はフロイトの観念に問題があるように思う。知性なるものによってコントロールされるのではなくてしがらみのない無垢な目でものごとを見ることができるかということではなかろうか。理性とか合理性とか知性とか、そもそもいったいなになのか、立ち帰って考える必要がないだろうか。また破壊行動なるものが本来もっている衝動なのか、私は疑問に思う。もしそうであるならば古の世界遺産は存在するはずがないからである。生命にある本来の本能とはつねに新しく生まれ変わっていこうとする新陳代謝ではなかろうか。古くなった細胞を新しく生成していくのは生命の原理である。そして生命は個体の限界をしっているがゆえに生殖細胞によって未来にDNAを子孫に新しい個体として存続していく。ダーウインの弱肉強食という進化論は現在は否定されている。生命は適材適所で生き、環境に適応できたものが生き残っていると指摘する。恐竜は変化する環境に適応できなくなって滅びたのであり、恐竜時代に恐竜に食われる恐怖に怯えながら物陰にひっそりと生活していたネズミのような私たち哺乳類の祖先は激変する環境に適応順応して生き残り、次の新生代に哺乳類の繁栄をもたらしたことを現代生物学は教えている。生命は生きるために他の生命を食う。ライオンはシマウマを襲って食らい牛馬は草を食らう。私たち人間は肉も野菜という草も食べる雑食動物である。生命は満足したらもうほかの生命を奪おうとはしない。ところが人間はほかの生命にはない過大に発達した大脳のために必要以上のものを獲得しようとする、いわゆる富の蓄積が農耕文明とともに生じた。集落が生まれ、ついに国なる集合体が生じた。あとは世界歴史の示すように富をめぐる争奪戦の繰り返しである。飽くことのない脳をもった人類が富や資源の争奪に向かっていることが問題ではなかろうか。これが他者に対する攻撃・破壊行動となるのではないだろうか。飽くことなき脳が創造的建設的な方向に向けられたならば地球生命の存続は、宇宙的地球的条件の許されるかぎり、継続するであろう。
また、フロイトは、生命は本来攻撃本能をもっているという。これも現在生物学では批判されている。おもしろい実験がある。一つの水槽のなかに、太陽光をエネルギーとする葉緑体をもったソウリムシと葉緑体をもたないゾウリムシをいっしょに入れたところ、葉緑体をもつものは水槽の上に群がり、葉緑体をもたないものは水槽の下部や底に群生して底に落ちてくる塵やプランクトンを食生していて群れの間で争いはなく共生していたという。ところが、葉緑体をもつゾウリムシを新しくその水槽に入れたところ、葉緑体をもつゾウリムシどうしで争いが生じたという。太陽光を浴びることのできる水面のエリアに余裕がなくなればそのエリアをめぐる奪い合いが生まれるということである。弱肉強食ではなくすみわけで生物共存しているという理論の証である。人類がゾウリムシと違うのは能動的創造的に生活範囲を広げ生活資源を増やしていったということである。道具を発明し、現生活人類であるにいたっている。
ホモ・サピエンスは群れを作って協力しあいながら糧を獲る能力に長け、農耕牧畜文明を作り、そして工業商業文明、情報文明へと高度に発展させて生産力を飛躍的に増大させていったのであった。
フロイトの攻撃・破壊理本能論はニーテェの力の論理とともにヒトラーのナチズム理論を後押しした結果にな
っている。ナチス・ファシズムを阻止しえなかった理論的要因があったように私は考える。それでも、アインシュタイン・フロイトの書簡は、戦争防ぐためにどうすべきか、でないと世界は破滅するという切迫感お当時の彼らが抱いた以上に今生きる私たちが抱かなければならないことを訴えているように聞こえるからである。ユートピア論的人道主義論的に平和を訴えるのではなくて、戦争防止のために政治的経済的社会的枠組みをどう作っていくのか具体的に考え作り出すことこそが必要ではなかろうか。今の世界はアメリカ対中ロという図式にあまりにもはまり過ぎている。‘イヤな国、中国’とみなす国のほとんどが貿易相手国第一位が中国である。日本もアメリカ、欧州のほとんどがそうである。逆にいえば中国無くして世界経済は成り立たないという現実である。政治家はその現実を無視して対立を煽ることで国民から強いリーダーとして支持を集めようとしているようにみえる
戦前日本では東条英機は国民の間でとても人気があったという。戦後ではA級戦犯の極悪人として極東軍事裁判で死刑になった人物であるが、戦前は鬼畜米英に立ち向かう首相として英雄視されていたという。気さくな人柄で人なつっこかったという話があるが、一方で五味川純平の「御前会議」や猪瀬直樹の「日本人はなぜ戦争をしたか」での東条英機像は小心者で空威張りする見栄っ張り者として描かれている。学習院・陸軍士官学校で同期であった石原完爾に常に敵対心を抱き、ついには石原を軍部から失脚させて追い出したという有名な話がある。実像はみえにくく虚像に騙されやすいということであろうか。
なぜ政治的経済的社会的対立が生まれるのであろうか。不平等不公平不条理のためだけでなく、富の争奪のために生じることも社会科学は明示している。国家間の紛争は富や利権をめぐる問題が多いようである。フランス市民革命やアメリカ独立戦争・第二次大戦後の民族自決による植民地独立運動などは不平等不公平不条理からの解放とみなせるであろう。それに対し、二度の世界大戦・戦後の米ソ対立や現在の米と中ロとの対立は富や利権をめぐる争いといえるだろう。今の東アジアをめぐるきな臭い動きもその一つといえるだろう。
人間社会がある限り対立はなくならないであろう。なぜならさまざまな観念・価値観・慣習・好みなどもつからである。しかし多角的だからこそいろいろなアプローチで歴史における難局をこれまで乗り越えて現在に至っている。
今、対立を超える壮大な実験がヨーロッパでおこなわれている。EUというヨーロッパ連合である。外務省によれば、ヨーロッパ中心に27か国が加盟し、欧州連合条約に基づく、経済通貨同盟、共通外交・安全保障政策、警察・刑事司法協力等のより幅広い分野での協力を進めている政治・経済統合体である。そしてEUでの協議する場として欧州議会があり、大統領や委員長などのポストがある。各国に同等の権限が与えられ、国連のような拒否権はない。核保有国であってもルクセンブルクのような小国と同じ権限である。長い間多民族間対立に苦しんできたヨーロッパの打開策である。アインシュタインの求めていた国際協定機関のひな型であろう。しかしまだ多くの課題があり成功するかどうか模索状態であるといわれる。
国際連合が今機能不全に陥っているのは常任理事国というポストとその国のみに与えられた‘拒否権’という特権のためであることは明白である。米中ロ英仏は手放そうとしない。大国エゴのために機能しえないのは当たり前である。そこから手をつけないかぎり国際連合という機関は有名無実なものとしてこれからも存続するだろう。きは、私たち日本人が今できる具体的可能策はなにであるざろうか。
十数年前に東アジア構想というものがあった。日本・中国・韓国の参加国による平和的経済共同体をつくろうというものであった。私はそれにとどまらず、インドやロシア・オーストラリア・ニュージーランドも含めたEUのようなアジア連合がつくれないかと思う。加盟国は同じ権限をもち、拒否権のような特権はないというのが大切である。中国・インドも小国ブルネイと同じ権限であるということである。欧州議会に相当する‘アジア議会’で政治的経済的協議すれば、今のような軍事的緊張はかなり緩和されるのではなかろうか。対立ばかり煽る政治家はサッサと退場してもらいたいものである。なお、戦中に大東亜共栄圏という構想があったが、その構想には日本のみが権限をもつという帝国主義的植民地発想であった。その証拠にその前段階と位置づけられる朝鮮併合の朝鮮人・満州国・日本軍による南京陥落後ろ南京政府などは自主独立権限も選挙権などの政治的権利もなく、まさしく大日本帝国の植民地であったからである。私のいうアジア連合はEUのように各国が主権の一部を同等にアジア議会に譲って問題を解決しながら共存共栄を図っていこうというもmのである。
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