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14.高齢化社会について
日本では100歳以上の人口が2022年9月に、9万526人に達したという。そのうち女性が89%占めるという。そしてあと数年で10万人を超えるといわれる。65歳以上の高齢者の人口は同じく2022年9月に総人口の29.1%に達したという。「2025年には団塊の世代が75歳以上となり、3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上となります。」と厚生労働省はホームページでいう。私も昨年の2022年5月に65歳となってなにか世間の重石の一人になってしまったという思いに駈られる感を覚ててしまう。
以前から指摘されていた高齢化の実態ではあるが、さすがの私も創造をを超える高齢化の急進ぶりには驚くばかりである。良質な医療サービスと栄養改善、そしてエアコンなどによる住居環境の快適化が大いに寄与していることは疑いはないだろう。
不老長寿は古来から人類の願いであった。いにしえの皇帝がらみれば今の日本人は夢のような羨ましい人とうつったに違いない。私のまわりでも元気な‘お年寄り’は多く見かける。今の80歳は一昔前の70歳みたいな元気さである。
私は、高齢者という概念を変えていく必要があるように思う。実態が昔とはまるっきり違っているからである。少なくとも70歳以上を高齢者とすべきではなかろうか。近い将来には75歳以上を高齢者というかもしれない。その兆候は出ている。健康保険制度では、70歳以上75歳未満を前期高齢者と規定し、75歳以上を後期高齢者と規定しているからである。
若者が年よりを養うという観念を変える必要があるかもしれない。本人が掛けた保険金に応じて国が年金を支給するという体制の構築が望まれるかもしれない。ますます減少する‘若者’をあてにできないのは目にみえている。年金受給開始年齢も70歳かそれ以降にならざるをえないだろう。
年々膨らむ社会保障費と医療費のことがいわれているが、針灸・マッサージ師として外来や往診した経験をもつ私からみれば、いかに無駄な無意味な医療福祉サービスがあるか、現場で遭遇した。‘生かさず頃さづ’長く治療を継続してもらうよう営業努力するということであった。私の務めていた治療院も例外ではなかったのである。その対象のほとんどは70歳以上の高齢者である。一昔前までは70歳になると医療自己負担金は一割で済んだ。現在は二割であい、75歳いじょうは一割となっている。ただし所得のある人は年齢に関係なく三割である。病気になりやすい高齢者に医療機関にかかりやすくするのは理にかなっているであろうが、病にかからないよう心身を健康に保つ体制がまだ弱い。予防医学というものが30年程前からいわれているが、血圧が高いとき医者から食事や日常生活の指導を私は受けたことがない。テレビやネット・本などで調べて理解するといった案配である。私の出会った医者は薬の処方が目的のように見受けられた。
介護現場でも入居者が椅子に座らせたまま放任されているのを目撃したことがあった。早く帰宅したいのに夕方5時まで施設に拘束されて疲れるといったデイサービス利用の患者の声を聞いたこともあった。特養に入りたいが何年か先になるかわからないと施設からいわれて困っているとの話も聞いたことがあった。少ない職員で多くの入居者を抱えて入居者を椅子にじっと座らせているのをよく目にしたり、その話を聞いたりもした。ある人数以上の入居者やデイサービス利用者がいないと事業としてのビジネスが成り立たないという話も耳にした。
薬を必要としない医療、介護をひつようとしない健康づくりとしての福祉サービスにもっと予算を投じるべきではなかろうか。そうすれば医療費や社会保障費は抑制されるはずである。病気にならないよう寝たきりにならないようするのが本来の医療であり福祉であるはずである。
高齢化社会の進展とともに認知症もますます深刻な問題となっている。老化現象の一つであるが、農神経の老化による症状は他の臓器の症状と違って本人よりも家族が苦しむという特徴がある。壊れたCPUのコンピューターを搭載した自動車が制御不能で暴走するようなものであろうか。
今日、認知症に対する啓発活動がさかんい行われている。私もテレビやyoutubeで見たり、区役所主催の講演と映画会に出かけたり書籍を読んだりした。。認知症予防のための運動や体操、食事、外とのかかわりも含めた日常生活行動のしかたなどいろいろと紹介されている。フィトネスインストラクターのたきみかこと瀧島未香さんやアプリ作家の若宮正子さんの90歳前後というのにいまだに若々しいパワーにはいつも圧倒される。二人に共通するのは人生に対してぽしちぃぶであり、他人と比較することなく自分は自分としてありつづけているということであつ。そして悪口はいわない。私もそうありたいと思う。
高齢化社会の解決には高齢者の範疇を70歳ないし75歳からとし、それまでを現役世代と規定しなおすことが第一であろう。当然年金の受給開始は70歳ないし75歳からとならざるをえないだろう。医療を健康指導を中心とし、薬の処方で稼ぐ補填点数制度を改める。喫煙飲酒が仮にに国の法律として禁止となったならば医者にかかる頻度や薬物投与の度合はかなり低くなるであろう。
介護福祉関係でも、例えばデイサービスでは1日コースは定番となっているが、半日コースも積極的に取り入れて健康作りのための学習や体操、運動やウォーキング、散策、カラオケや合唱など脳や身体に心地よい刺激を与える場としてあるべきである。ちょこっとクイズしてちょこっとゲームをして残った大半の時間を所定の椅子に座らせたまま過ごさせるという、滞在時間を稼いで補助金を稼ごうとする今の介護現場の実態はまさに税金泥棒である。
私は25年前の盲学校時代、学校によるマッサージ研修の一つとして最寄りの老人ホームへ行ったことがあった。中へ入ってまず驚いたことは、通路にある長椅子にに入居者たちが電線に止まる雀のようにズラリと座り、お互いに話することもなくうつろな目をしながら前に顔を向けているいることだった。薄暗いなかで老人特有の加齢臭が鼻についたこともあって異様な感覚を覚えたのを今でも記憶している。二つ目にびっくりしたのは食堂にあったあまりにも大きな仏壇であった。幅が3~4メートル、高さが身の丈ほどあって大きな蝋燭に火が灯って幾十んもの位牌が整然ト並んで置かれていた。線香のにおいもあって寺の位牌堂のようであった。施設で亡くなった人を弔っているといわれたが、一種のおどおどしさを感じたものであった。マッサージをお願いされている入居者の部屋に入ると、長細い床に畳が敷いてあってそこに川の字のように4人の方が横になって休んでいた。私は入口すぐ近くの人をマッサージさせていただいたのであるが、となりの方たちは知らんぷりのような無関心のような感じで静かに寝ていた。老人ホームは昔は養老院と呼ばれていたが、実際に行ってみて現在の姨捨山そのものだと思った次第である。
単に生きながらえるというのではなくて、いかに薬いらず医者いらず介護いらずの生き生きとした元気な人を量産していくのか、という視点が政治家・官僚・医療福祉専門家にかぎらず人々一般でも弱いようである。安心して病院にかかれるように、とか、安心して介護のお世話になることができるように、とかはよく耳にするが、薬いらず医者いらず介護いらずを実現するために○○する、といった話はあまり聞いたことがない。国民受けが悪いからであろうか。
‘弱者のための政治’というスローガンをリベラルといわれる‘左寄り’といわれる人は好んで掲げる。福祉の拡充や生活支援給付の拡大を訴える。しかし‘弱者’をいかに‘強者’にするのかをあまりいわない。まさに「いい子ぶりやがって」である。支援を食い物にして当事者からピンハネして設けている悪徳業者がいる。支援を必要としないレベルへどう引き上げていくのか、これこそが医療福祉であるべきであり、これによって財政もふくめて高齢化社会の進展にとなう社会問題はかなり解消されるのではないだろうか。どうしても治療を受けざるをえない、服薬せざるをえない、介護を受けざるを得ない人こそを医療介護サービスを受けるべきである。
数年前、内館真知子の「終わった人」を読んだことがあった。これはのちbに館ひとし主演の映画にもなった。東大方卒のエリート銀行マンが定年退職後、身分の居場所を見つけようとしてあくせくする様を描いたものであるが、会社人間として人生のさかんな時期を送って生きた人には巳につまされるかもしれない。とくに部長や課長、取締役などの役員、校長や教頭など社会的地位をもっていた人の場合は、プライドや自尊心を強く持つ傾向があるようで、肩書き以前の今の生の自分の姿を直視しにくいようである。‘老後の人生’は人によっては働いていた年数と同等かそれ以上という場合がある。‘終わった人’ではなくて‘新たな人生’として人生を創造してゆく。生活するために働くのではなくて働くために生活する、これこそが能動的な生き生きとした人生を展開できるであろう。中国灯代の禅僧である百丈懐海は「一日作さば一日食らわず」という言葉を残している。弟子たちが畑つくりの作務(さむ)という労働にいそしむ老いた師匠の百丈をみかねて鋤や鍬を隠したところ、働かないなら飯は食べない、という逸話からきている。百丈は労働しなくても多くの弟子たちの労働で生活できる身でありながらである。どこかのえらいさんがふんぞり返って仕事を部下に任せてその成果を独占するのとは訳がちがう。食うために働くのではない働くために食べるのだ、これは、人生をどう輝かして生きていくのかを問いているのではないだろうか。
人は意味を求める動物である。意味を求める動物だからこそ人間であろう。‘生きがい’とはまさにそのことであろう。‘生きがい’とは何なのか。私はそれを宗教に求めて仏門に入った。事業や奉仕、スポーツ、研究、教育、芸能芸術、政治活動、旅行やレジャーなどそれぞれの場でそれぞれの人が‘生きがい’を求めてよいと思う。宗教にしかないと考えるのは宗教のおごりである。大切なことは選んだ道を徹底するということである。道をきわめた職人の姿は一種の尊厳と風格をもって存在してあることをよう目にし耳にする。肩書関係なく、その人はその人としてその人たりえている。まさに‘生きがい’の権現である。そして道をきわめばいわめるほどいたらなさがしみじみ見せつけられて終わりなき精進をせざるをえない。‘終わった’という概念は存在せず、一生現役である。
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