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16.‘死んで生まれ変わろう’について
一昨日(22年5月18日)、ショッキングなニュースが飛び込んできた。歌舞伎役者の市川猿之助が両親とともに自殺を図ったらしいとのことであった。両親は発見されてまもなく死亡が確認されたが、猿之助は意識もうろうの状態で発見されて病院に搬送されたが命には別条問題なく翌日19日に退院したという。今日(20日)のニュースでは、猿之助は警察の調べに対し、家族で話し合って死んで生まれ変わろうといって睡眠薬を飲んだという。
猿之助を巡っては週刊誌でハラスメントが取り沙汰されていたが、本人も含めて家族でそれを苦にしていたのか、原因は今のところはっきりしていないようである。。由緒ある家門を汚したということでもあろうか。とにかく最近は有名人の自殺行動をよく耳にする。
私があえてこの事件を取り上げるのは、‘死んで生まれ変わろう’ということばである。
平野啓一郎の「或る男」という小説がある。映画にもなったが、忌まわしい過去を捨てて新しく生まれ変わりたいということで戸籍交換して他人になりすますという話である。その事件に関わったコリアン系弁護士も‘なりすまし’に共感してコリアンであることから逃げたいという衝動も描かれていて、小説は奥深いものとなっている。
宗教でも‘生まれ変わる’という思想はよくある。キリスト教では「復活」という重要な概念があり、ヒンズー教や仏教では「輪廻転生」ということばが存在する。ただし釈迦は輪廻転生から解脱して涅槃という常楽の境地に達することだと説いている。インドではカーストが強く、‘カエルの子はカエル’という社会観念があり、釈迦はカーストを超えて一人の人間としての尊厳を獲得しようとしたのであるが。
一般通念として‘変身’願望が強く存在している。月光仮面やウルトラマン、仮面ライダーなどは有名な変身物語である。世界的にはスーパーマンであろうか。そして、現在では若者のあいだで自画像を工作してSNSで送信して見せびらかすというのが流行っているという。
私も仏門での得度のとき、師匠から「得度式は葬式と同じだ。一度死んで生きることだ。」といわれたことがある。戒を受け、墨染の衣と袈裟(けさ)・応量器を授けられたとき、自分はこれから出家者として生きていくことになったかと一つの大きな人生の節目を思ったものであった。
‘死んで生まれ変わる’は宗教の世界ではよく耳にする概念である。天国に生まれ変わるとか極楽往生するとかである。この世を苦しみの世界と思っている人にはこの苦しみの世界から離れて祝福に満ちた常楽のあの世界に行きたいと思うのは古今東西よくあることである。しかし、真の救済とは、宗教宗派問わず、生きている身のままで大宇宙(神とか仏とか万法とか大自然とか大いなる命とかなどといってもよい)からの啓示を受けることだとしている。‘神の声を聞く’とか‘悟りを開く’とかということである。そのとき人は大いなる世界を知って新しい自分を生きていける、と説いている。命を断たなければ救われないとするならば、それは生きている生身の人間のための宗教ではない。それならば、最初から生まれてくるなといっているようなものではないだろうか。なぜ命があり生存があるのであろうか。目先にとらわれずに自分の根本をおのおのが深く追求していく課題ではないかと思う。
‘即身成仏’という有名な言葉が仏教にある。とくに真言宗では好んで用いられている。中世において秘法として洞窟に籠って坐禅したまま朽ち果てるという修行があった。若いころ、俳優の三国連太郎が監督した「白い道」という映画を見たことがあった。念仏に生きる親鸞の生きざまを描いたものであるが、そのなかで、暗い洞窟のなかで坐禅したままミイラになっている僧侶の姿がアップして映し出されたシーンがあって、心に印象的に残っている。三国は、死ななければ悟れないというのはおかしい、生きてこそ悟べきではないのか、と主張していると私は解した。
般若心経の最後に「ぎゃーていぎゃーてい・・・」という呪文がある。和訳すると、「行こう行こう 彼岸へ行こう 彼岸に完全に行こう 悟りよ幸いあれ ここに大いなる智慧の核心を説き終わる」ということになろうか。問題は‘彼岸’である。‘彼岸’を‘あの世’と思っている人がほとんどではないだろうか。原語であるサンスクリットに照らすならば、悟りの境地という意味のはずである。悟りの境地とはなにか。般若心経でいえば‘空’を体得するということである。「一切が空であることを照見して一切の苦=執着から解放された」ということである。あなたがたも観自在菩薩と同じようにやっていこうではありませんか、というのが般若心経のいわんとしているとことではないかとわたしは解する。すなわち、‘彼岸’は私たちの今生きているこの世にあるということである。中村天風は「盛大なる人生」や「運命を開く」で、世界を荒れ果てた墓場とみるのかかぐわしい花が咲き誇る楽園とみるのか心次第だと喝破している。マイナス思考の人は世界を暗く見、プラス思考の.人は明るい世と見る、ということである。
今生きている自分という世界をいかに輝かしめていくのか、いかに生き生きと人生を歩んでいくのか、このことのために宗教はあるはずである。
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