23.宗教と政治について  (神谷湛然 記)

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  23.宗教と政治について

 宗教が政治に関わることで社会がよくなるという信仰があるようである。
 創価学会は公明党をつくり、今では与党の一翼をになって国政に大きな影響力を与えている。イスラム世界ではイスラムを崇拝する国王あるいはイスラム系政党が政権を握っているところが多い。イスラエルではユダヤ教を信奉するシオニストが政権をもっている。アメリカでは大統領になった人は聖書に片手を置いて宣誓する儀式がある。
 宗教の関わった痛ましい事件は、日本ではオウム真理教のサリン事件であり、世界ではイスラム原理主義者による9.11テロやISによる自爆テロや多くの人質への殺害行為があった。古くは中世におけるキリスト教による十字軍遠征やヨーロッパ列強による帝国主義的植民地拡張制作の先兵としてのキリスト教布教制作、日本では仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の争いや戦国時代によくおこった一向一揆・法華一揆、明治初頭の廃仏毀釈と国家神道による戦争総動員体制作りなどがあった。
 では、宗教に関わるポジティブなエポックは、ということで述べてみよう。
 仏教信者の間では古代インドのビンバシャラ王やアショカ王は仏教保護したということて尊敬されており、日本では聖徳太子が仏教に基づく十七条憲法を制定したなどで今でも大いに崇拝されている。‘和をもって貴しとなす’という言葉は日本人の精神の元となっているといえるかもしれない。
 宗教は原始時代から政治と多かれ少なかれ関わってきたことは歴史が教えている。古くは、政治が‘まつりごと’として神による祭事と同一視されていた。宗教を使うことで集団をまとめあげ、一体化した集団をもって権力を行使しやすいという側面があるからだといえる。
 では現在において実際に宗教が政治に関わることでどうなっているのであろうか。
 創価学会の政治団体である公明党は今や‘平和の党’の看板をおろして戦争のための党になってしまったようである。権力のもつ利権という甘い蜜を失いたくないためか、軍備拡張と国民党性を強める自民党の尻にくっついている。私が一番奇異に感じたのはあの公明党が国のカジノIRに賛成したことであった。イスラム世界では女性への人権弾圧が堂々とおこなわれている。人間としての自立が認められず、アフガニスタンのタリバンは女性が学校へいくことや仕事をすることを禁止している。hたしてムハンマドは女性の自立を嫌ったのであろうか。イスラエルとアラブの対立もよく知られているように宗教が大きく関わっている。ロシア正教会はプーチンのウクライナ侵攻を正当化して大量の殺人行為を手助けしている。今年3月に亡くなった大川隆法が率いていた幸福の科学は北朝鮮を以上に敵視してその国家の殲滅を声高にいっていたものであった。
 宗教が国家統治の手段として、人々の精神を一つに収斂するための道具として使われていると言わざるを得ないようである。
 宗教の本来の役割は何であったのであろうか。人間の持つ苦悩を解決するためにあったはずである。苦悩には物質的苦悩と精神的苦悩がある物質的苦悩はさらに身体的苦悩と身体外的苦悩。に分けられるであろう。前者は例えば金銭的欠乏による経済的貧困があげられ、後者には飢餓や寒熱・病気・老いがあげられる。精神的苦悩には能力がないとか性格が悪いとか出世できないとか身分が卑しいとか生まれがよくないとかがあげられるであろう。そして、生きている意味の喪失が精神的苦悩の最たるものだといえる。
 物質的苦悩は生産技術や科学技術の発達によって昔と比べたら格段に解消されているといえるだろう。今でも世界人口の一割が飢餓に苦しんではいるが政治・社会の問題が大きいといわれる。逆にいえば物質的苦悩は政治的社会的に解決できるということである。宗教は必要としないということである。
 では精神的苦悩はどうであろうか。能力や性格・地位・身分・出自・家柄・などは、他との比較で生じる苦悩といえる。学校では国語・数学・英語などの限られた科目での点取り競争で生徒の値打ちが決められているところがある。コミュニケーション力とか歌や演奏、絵画などの芸術・工作などの技能・体育的能力などはあまり顧みないところがとくに公立校には多いようである。学力テストによる生徒間・学校間の競い合いは頭でっかち人間養成機関そのものである。お役人を作るにはいいしくみかもしれないが。物理学の大天才アインシュタインは学校時代は劣等生だったといわれている。とくにギリシア語・ラテン語はとても苦手だったという。会社では肩書がものをいっている。無能な上司についた部下は悲惨である。学校を終え、会社を終わえ、社会的立場を終えて定年退職などで一介の人間となったとき、すべての意味が失われていく感覚をもっている人が多いといわれている。書店では第二の人生をどう生きるのかという関連の書籍がよくならべられている。
 精神的苦悩のほとんどは他との比較して自分の存在価値を判断するとkぽろから生まれているといえる。人間関係で悩んでいる人が以前より多くなっているといわれる。人付き合いが苦手が増えているという。いわゆる‘ひきこもり’現象が大きく関係しているといわれる。子供たちや若者たちの間ではファミコンやスマホのゲームやSNSに片時も手を離さないでいることをよく耳にする。私も白杖をもって点字ブロックを歩いている説き、歩きスマホの人に何回かぶつかったりぶつかいかけた経験をもった。また、会社人間だっにた人が定年になって‘ひきこもり’になって孤独感疎外感に陥っている話もよく聞く。自分の世界に閉じこもっているところに共通点があるといえる。ゲームにしろSNSにしろ‘ひきこもり’にしろ、その世界は自分にとって心地よい空間である。自分にとって不快なもの不都合なものは徹底的に排除する。当然、独りよがりになりやすい。独善的となり、多様性を認めにくくなりやすいといえる。そのくせ、他人からの評価をとても気にする。31歳の男が自宅前をよく通るウォーキング愛好家の老婦人たちを悪口をいったとしてを強い殺意をもって刺殺した長野の事件(23年5月発生)は象徴的といえるだろう。人間関係がうまくいかないという悩みは案外と他との比較や他からの評価に敏感なところがあるようである。真に自分の世界を確率した人は、他も自分と同等に確固たる存在として認めることができ、、自然と自他ともに謙虚になる。本当の自信をもった人は大きな心伝もって他と堂々と関わることができる。それをすぐれた先人たちが実証している。
 精神的苦悩の最たるものは生存に対する意味の喪失感と私は先述した。これも、他人との比較や他人からの評価を推し量って自分の劣等感を増大したものといえる。精神的苦悩は時代が進んでも人間が存在する限り消えることのないものであろう。精神的なものは知識や技術と違って蓄積がきかないとよくいわれる。私たちは原始人と精神面では同レベルということである。宗教が必要とされるのはこの精神的苦悩という人間存在のなせる精神的問題を解決するところにあるというころではないだろうか。
 出家というスタイルを取っている宗教がある。キリスト教カトリックと浄土真宗を覗いた仏教が取り上げられるだろう。世間の仕事やなりわいを捨て、家族から離れ、一部ないし全部を剃髪して特定の修行服を着て四六時中修行道場で生活を送る。世俗から離れて一種の閉鎖された世界に閉じこもるといえる。世間から出るということで‘出世間’といわれる。世俗の通念や観念・しがらみなどから離れて人間にとってゆるがない価値、即ち真実を手にするために、世間から距離をおいて真実を参究する場としての修行道場が求められたといえる。そして道場は生活の場でもあるから一つの独立した共同体としての性格ももつ。ある道場では、農園や作業場などがあり、農作業や燃料のためのマキ作りや草刈り、用具の修理や修繕など生活全般を自前で賄っているところがある。私のいた修行道場の曹洞宗系の寺はそういうところであった。寝ても覚めても24時間修行生活の中にまず身を置くということが必要だということで出家という形態が生まれたとお思う。こうした観点から考えてみたとき、出家とは学歴や職歴、社会的経験・身分・家柄・出自などのしがらみや装飾を脱ぎ去ってすっぽんぽんの真っ裸の自分となって新しい世界に飛び込むことだといえるのではないだろうか。単に自宅を出て‘心を磨きに行く’という腰掛けではないということえある。とするならば、出家者は肩書や地位、出世、まわりの評価、家族や共同体いや国や世界のしがらみにこだわるべきでないとなるはずである。そんなものは単なる名札のようなもののはずである。ところが現実にはその名札を追い求め、ありがたがり、威張ったり猫のように丸くなってひがんだりしている。世間とまったく同じ様相である。紫衣はとても偉い坊さん、黄衣は一人前の坊さん、黒衣はペーペーの未熟な坊さんと檀家は陰口をたたく。出家者自信もいい衣を欲しがっている。有名な大寺院の就職になるものならそれこそ大出世である。単なる約を担っているだけであるのにそこに箔をつけ値段をつけている。しかもどこの修行道場で修行したかでその宗門の出世がきまるとことがある。曹洞宗では永平寺と総持寺の専門僧堂が宗門の東大や京大に相当する所として位置づけられている。一般人からどこが出家なのか、肉も食って女ももってなにが出家か、となる所以であろう。在家宗教であるプロテスタントや浄土真宗がアンチテーゼとして現れたと私は思う。
 精神的苦悩の解決こそ宗教の役割ではないかと述べてきた。政治の役割は物質的苦悩の解決であるといえよう。そこにはいろいろな利害が生じやすいので、その利害の調整がまさしく政治のする仕事である。賛成があり反対があり、いろいろな思惑も絡んで複雑になりやすいものである。その利害は物質的利害といってもよい。道路・鉄道・施設・商工業農林漁対策・教育研究・福祉・外交軍事防衛・・・などまさしく物質的利害のオンパレードである。古代では行基や空海のように宗教人がどぼくや建設・病人への手当や投薬などを行っていたが、現在ではそれは建設会社や医者が行っている。物質的な問題であるから時代とともに宗教の仕事から離れていったのは当然であろう。今の宗教団体の政治への目的は物質的利害団体としての行為でしかないと明確にいえるのではないだろうか。
 それに対して精神的苦悩は利害を超えて人間が人間としてもってしまう負の十字架である。賛成とか反対とか思惑とかいうレベルの話ではない。つまり、政治の範疇ではないということである。曹洞宗の開祖とされる道元は時の天皇からの紫衣授与を断り、権力者たるかまくら幕府から遠く距離をおいたのも政治が宗教になじまないと悟ったからだと私は思う。
 宗教が政治の進むべき道を示すことができる、だから宗教は国家の上に立たなければならないのだ、という人がいる。イスラム世界ではイスラム法なるものがあって州指導者問題にが政治の大枠を示すとなっている。イランのハメイニ師はその代表であろう。創価学会や幸福の科学、かってのオウム真理教も同じ類といえる。しかし彼らの実際行っているのは相反する利害者に対する弾圧である。公明党は反対党をけなし、オウム真理教はサリンをまいて多くの人を‘ポア’して殺した。イランのハメイニは反対市民を弾圧した。なまなましい政治的利害者の血生臭い横暴である。宗教という名を借りた利害者行為でしかないと私ははっきりいっておきたい。
 宗教は宗教であって政治ではない。真の宗教という視点からみれば政治とは相いれないということである。
 なお、宗教人が核廃絶を訴えるのはよくないのかという指摘が聞こえてきそうである。そのことに関しては私はこう言おう。核爆弾は今や一度でも使用されたら報復もあって収拾がつかなくなって政治的物質的利害を超えて人類いな地球生命そのものが全滅する危険があるために核に対して絶対反対でなければならないということである。人類の欲望のなれの果てである核に対して生命の根本問題としてみない宗教は宗教ではないと断言したい。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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