28.科学と宗教について  (神谷湛然 記)

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  28.科学と宗教について

 科学と宗教との関係はヨーロッパ中世から大きな問題となっていた。その有名な事件がガリレオ・ガリレイによる地動説に対するキリスト教会からの弾圧であろう。16世紀前半から17世紀前半にかけて生きたイタリア人のガリレオは、17世紀初めに‘地球が太陽の周りを回っている’という地動説を唱えてローマ教皇から無期懲役の刑罰を受け、大学教師の職を失って牢屋に入れられた。のちに軟禁となったがそれにもめげずに研究生活を続けたという。教会は‘太陽が地球の周りを回っている’という天動説を主張していて、ガリレオの説は教会の権威を否定するものだとされたからであった。
 ガリレオは科学に初めて思考実験の方式を確立したことで鎮台科学の父と呼ばれている。仮説を立て、それを実験で検証し、数学的手法を使って理論化する。今や科学をやる人にとっては当たり前のやり方が、当時のヨーロッパ社会で絶大な権威と権力を持っていたローマ教皇・キリスト教カトリックは教会に対する挑戦とみたのであった。
 現在では科学の暴走ということが問題にされているが、当時は宗教の暴走であったわけである。
 なぜ、宗教は暴走してしまったのか。私は宗教が自らの本質を見失ったからだと考える。宗教の本質は、個々人がいかに充実した生き生きとした人生を力強く歩んでいくのかを提示するもののはずである。問題はそこから逸脱して政治・経済・社会・自然界まで宗教の名のもとで勝手な論理でもって世界すべてを統括したことであった。神による創世記神話がキリスト教を狂わしめたかもしれない。紀元前に作られた創世記物語は当時の原始的民間宗教の考え方が集大成されたものである。人間はあらゆる現象を世界を理解しないではおれない生物である。原始的民間宗教的世界観・自然観を後生大事にしてきたことが暴走になったといえる。近代以前はあらゆることを宗教でもって説明しようとしていた。紙という概念がものごとの根本というニュアンスを与えられ、そこから想像豊かに物語が作られていった。いわゆる神話である。私は以前古事記に関心があってそれに関する本を読んだことがあるが、古事記も旧約聖書も最初のあたりの話はよく似ているものだと思ったものである。世の始まりは、古事記では天御中主(あめのみなかぬし)が現れてすぐおかくれになったとあり、旧約聖書では最初にカオス(混沌)があり、そこから神は7日間かけて世界を作られたとある。人間の祖先も、古事記では何代か入れ替わりしてイザナギとイザナのノ二対の紙が現れたとあり、旧約聖書では紙が土をこねてアダムを作り、のちに寂しがるアダムのためにイブをアダムのあばら骨から作り出したとある(旧約聖書をキリスト教と同じく源流とする字スラム協では神は男を作りそれから女を作ったとして男の附属物としての女という意味合いを薄めている)。人間の祖先は神の子であるということdじぇある。人間を他の生物とは違う特位な神的立場においているのが面白い。ただ、古事記ではイザナギとイザナミはお互いセックスしてたくさんの島々を生んだとあり、旧約聖書のアダムとイブが二人して人間以外を生んだという話はない。神話であるから話はどうにでもなるということであるが。ギリシア神話では日本神話と同じくアニミズム的に自然現象も含めてなにもかも紙にしていて、しかもあまりにも人間臭いのも共通ている。古事記は根元紙的絶対紙をアメノミナカヌシとしているところは一神教的であるが、それからのちに生まれた神はギリシア神話の多神教のようにさまざまな人間臭い神々である。この思想は古代中国の陰陽道から影響を受けたものだろうか。まず根源というものがあってそこから陰と陽に別れてさまざまなものごとが成立していったというのが陰陽思想だからである。宗教はそういう神話を抱え込んで現在に至っていることが、時代が下るにしたがって問題が大きくなっていると思う。そしてそれとともに宗教の本質が問われてきているといえる。
 オウム真理教のサリン事件のように現在でも宗教の暴走があるが、現在ではそれ以上に18世紀産業革命以降に科学の暴走が問題にだれている。20世紀半ばの核兵器の誕生と21世紀初頭からのAIすなわち人工知能の急速な発展は人類が生み出した科学の成果によって人類自らを破滅しかねない局面に立たされている。科学は仮説を立て、実験実証検証して理論を作る。そして理論に不都合な事実が出てきたとき、改めて仮説を立て直してまた実験実証検証して新しい理論を作る。その繰り返しが科学である。科学の暴走はその時点で正しいとされた理論を永遠不変の絶対真理としたことによると私は考える。ダウィーンの弱肉強食の進化論は20世紀半ばまで世界を席巻していたが、現在では否定されている。現代生物学では、進化論とは生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象とされている。強いものが生き残るのではなくて、変化する環境に適応順応できたものが生き残るということである。別の考え方として、棲み分け理論というものがあり、それぞれの生物は棲み分けしながら共存共生しているということである。面白い実験がある。ある一つの水槽に葉緑体をもつソウリムシとそれをもたないゾウリムシを入れたところ、葉緑体をもつものは水槽の上層に群がり、もたないものは下層に群がってともに争うことなく共存したという。ところが、葉緑体をもつゾウリムシをさらに追加したところ、葉緑体をもつもの同士が日光のあたる場所をめぐってテリトリ争いをしたという。それぞれの環境に応じて共存しているという考え方は生物の多様性を説明できるものとして注目に値する。これらの理論も将来にわたって正しいのかいえない。理論は今のとことわかっている事実を元に作られているのであって、新しい事実が出てくれば変化せざるをえないものであるからである。科学を作るのは人間であり、それを使うのも人間である。同じころが宗教にもいえる。宗教を作るのは人間であり、それをどう使うのかも人間次第である。科学も宗教もどちらも人類いや地球生命にとって良きものになることが使命のはずである。科学には核兵器の無毒化研究とAIの正しい情報処理技術の進展・倫理的なガイドラインの組み込みなどを願っている。私は40代初めのころに当時在籍していた筑波技術短大でC言語を学んだことがあるが、アルファベットと数字と記号の組み合わせでプログラミングして、それに基づいてデータが処理されていくのを体験して、気を付けないとデータを悪用されかねないなと思ったものである。
 科学の暴走について宗教人が語るとき、科学に対するネガティブな論調が感じられる。科学は倫理がない、今こそ宗教に主権を取り戻そうといった主張である。ある保守的な宗教人は、進化論は間違っている、人間は他の生物から進化して生まれたのではなくて人間は最初から人間として生まれて今日に至っているのだということである。大概の宗教の世界では洋の東西を問わず、、人は神の子としている。また、多神教やアニミズムの世界では自然現象も含めて生物無生物一切万物に紙が宿り神の分身としている。古代の原始的創世記観念が今でも根強くもっている。古代人が頭をひねくり回して作り上げられた物語をなぜ現在も大切なものとして宗教人は崇め奉るのか。ガリレオに対するカトリックの弾圧伺われるように、宗教思惑の絶対的無誤謬性を頑なに信じてやまない狂信を私はみる。
 同じことが科学にもいえる。科学にも科学の無誤謬を信じてやまない狂信者がいる。現在の宇宙論は138億年前のビッグバンから始まったとされるが、それ以前にも別の宇宙があったのではないかとか、宇宙は膨張と収縮の繰り返しというインフレーション論の考え方があったりしている。宇宙について分かっていることは1%に過ぎないとある科学者はいう。宇宙について今のところ知られている数少ない事実をどう関連づけるかでいろいろな仮説が生まれ、ビッグバン論は現在のところ最も有力な仮説となっているだけである。それを科学の狂信者はその仮説を絶対真理のものだとして振りかざす。
 科学の無謬性を揺るがす事件が日本で代金にあった。2011年の東日本大震災による地震と津波で崩壊した福島原子力発電所である。絶対壊れないとされた厚さ1mのコンクリート建屋が水素爆発によって吹き飛び、あってはならないメルトダウンが起こってしまtったのであった。原発専門家や政治家、メディアは想定外の事態だと言っていたが、のちに都合の良い事象だけを集めて安全だとしていたことが暴露されていった。どのような事実を集めて検証するかで結論がまったく異なることがある。また、つい最近までは発電コストが一番安いのは原発だといわれていた。今は太陽光や風力の再生可能エネルギーが最も安価な発電コストとなっている。使用済み核燃料再処理や廃棄のコスト、保安コスト、事故を想定してのをの安全対策・住民の避難体制作りなどのコストを以前は原発の発電コスト計算に入れていなかったという。原発の絶対安全・最安コスト神話は原発推進論者によって都合よく集められた事実だけでもって計算されていたことも今は明らかになっている。
 イスラム教では一番大切なものは謙虚であると説いている。キリスト教では愛をもっとも大切なものとし、仏教では慈愛を一番だとしている。愛や慈愛は、争いが絶えず、貧しかった時代においては、‘お恵みを我らにお与え下されますように’が人々の一番の願いだったことの反映だと思える。経済的にそれなりに豊かになり、科学技術が高度に発達した現代社会において最も必要とされるのは謙虚ではないかと私は考える。科学も宗教も作るのは人間である。紙でない人間が無謬であるはずがない。完全無欠完璧な存在ではない。いくら注意留意してもエラーするのが人間である。エラーをできるだけ少なくしようとするのに不可欠なのが謙虚に現実と向き合うということである。謙虚がある限り、科学や宗教の暴走は抑制されるのではないだろうか。
 人類は自然に対してあまりにも横暴すぎるのではないか、と最近叫ばれている。地球の温暖化問題はその象徴的な事例とされている。ただし、その温暖化の原因を人間生活による二酸化炭素の増大に求める人と、二酸化炭素が問題ではなくて地球と太陽との関係や地球の長い歴史のなかでの気候変動の一コマだという人がいる。太陽光などの再生可能エネルギー業者、石油・石炭などの化石燃料業者や政治家などの経済的政治的思惑も絡んで論争がかみ合わないことがみられる。ただ、ここ数十年の間の平均気温上昇は尋常ではないことは確かなようである。温暖化論に反対の人もこの事実についてまともに向き合って解明してほしいものである。温暖化の原因を二酸化炭素にもとめる人のなかには原発をもてはやす人がいる。放射能性廃棄物深刻な処理問題や完全に制御しえない放射能の問題などある意味では二酸化炭素よいも生体に深刻なダメージを与えかねないことをないがしろにしているところがある。人間五とって都合の良い打算で考えるのではなくて、自然という地球全体の一部としてある人間の存在を考えなければならないはずである。自然とそれに相対する人間というデカルト的二元論ではなくて、自然のなかの一構成要素としての人間という捉え方がますます必要になっているのではないだろうか。紙を大自然とみたとき、神なる大自然に対してイスラムの説くように謙虚であるということである。紙なる大自然に畏怖してその前に膝まづくことであろう。
 文明は森を切り、燃やし、破壊して最後は砂漠や荒野となってその文明は滅びた。エジプト、メソポタニア、インダス、黄河・・・。今は砂漠や岩や石ころのころがる木もない荒れた大地となっている。現代文明もそうとはならないという保障はない。知っているのは人間ではなく自然だからである。自然いや大いなる宇宙の偉大さを人類はかみしめなければならない時代となっていることは確かである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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