31.憲法9条について  (神谷湛然 記)

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  31.憲法9条について

 日本国憲法改正論議の核心となっている第9条について考えてみたいと思う。まず、その条文をみてみよう。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 戦争放棄を定めたこの条項は日本国憲法の核心として世界で有名である。反戦平和を掲げる人たちはこの条文を崇高なものとしてこの改正に反対している。
 この9条のもとで自衛隊法が制定されて近い将来に世界第3位の軍事費をもつ自衛隊になろうとしている。小学生にも分かりにくい9条と自衛隊の関係はいったい何なのか、私なりに解きほぐしていきたいと思う。
 他国から侵略を受けたとき、日本国民は指を加えたままなされるままに黙っておれ、ということかと思う人はいるだろう。ところが実際はアメリカがそれに対応することになっていた。日本国憲法はアメリカGHQの占領下にあり、実質的に日本はアメリカの植民地であった。戦後、新しい法体系のもとで普通選挙が行われ、民主的政治が実施されていったようにみえたが、あくまでGHQの意向の下であった。日本は1951年(昭和26年)にサンフランシスコ講和条約に調印して独立を果たしたとされるが、それと同時に日米安保条約が締結されて引き続きアメリカ軍が日本に駐留することとなった。軍事は一切アメリカ軍が行うというのが戦後日本で一貫した論理であったといえる。日本はアメリカの属国であるから軍事に関わらなくてよい、ということである。しかし、同じ敗戦国でありながらドイツ・イタリアは自国軍を持つことを最初から許されていた。黄色人種に対する蔑視観とカミカゼに象徴される強靭な戦闘精神への怖れがアメリカをして日本から‘牙’を抜き取ろうとさせたとある人はいう。しかし、1949年の中国共産党による新中国の誕生と1950年に勃発した朝鮮戦争によってアメリカは日本に共産主義勢力に対する極東の防波堤としての役割を負わしめようとした。それが自衛隊の前身である警察予備隊誕生であった。朝鮮戦争勃発直後、1950年7月のGHQ・マッカーサーの指令による日本が再軍備のため、8月に組織された。のちの1954年に自衛隊に発展改組された。9条を日本に作らしめたアメリカが自らその法を破ったといえよう。9条は制定段階からアメリカの都合によって翻弄されたのであった。
 では、平和を希求する立場からすれば、9条は実際にどうとらえばよいのであろうか。自国の防衛は当たり前である。防衛は軍事だけではない。外交や政治・経済・人材など国としての力も防衛の重要な要素である。最高の勝利は戦わずして勝、と古代中国の兵法はいっている。敵を作らないことが最強の防衛とある人はいう。アメリカは2位の中国の3倍の国防予算をもつ巨大軍事国家であり、圧倒的な核の保有国である。そのアメリカを日本は恐れていない。敵ではないからである。中国やロシア・北朝鮮を恐れているのは敵としているからである。敵を作らないということは、国際紛争を国際協調でもって防ぐということである。それでも他国からの侵略があった場合は、憲法13条の個人の生命及び自由と幸福追求の権利を公共の福祉に反しない限りにおいて尊重する義務を負う国家はその侵略に対して国民を守る義務があるとされている。つまり、国家は侵略勢力を国外に追い払うべきだということである。そのための軍事行動はやむをえない手段として許されるということである。そういう観点から9条を改めて読み直してみたならば、国外での国際紛争の解決のために国権を発動して武力による威嚇及び武力の行使は行わないと解すべきであろう。戦力とは国外での国際紛争において用いられる戦力のことであり、国外での交戦権はこれを認めないとするのが筋が通るのではないだろうか。
 50年ほど前、当時の日本社会党が‘非武装中立’を唱えたことがある。そのころは今と違って戦争にたいする反感感情がまだある程度残っていて、社会党のこのスローガンが一定の支持を得ていた。私もそれに共感していた一人であった。大阪万博が70年に開かれ、72年に日中国交正常化し、75年にサイゴンが北部となぬと民族解放戦線によって陥落してベトナム戦争が終結した。アジアにおける緊張緩和が背景にあったといえる。しかし、現実には‘非武装’は困難といえる。お手本とするスイスは武装中立である。国外には武力攻撃することはない、ただし最低限の自衛としての武力は持つとしたことである。問題は、現在では最低限が最低限でなくなっていることである。
 安倍・岸田は国外での武力行使を可能とした。彼らの論理では専守防衛としている。この論理だと、戦前に日本防衛と称して中国・アジアに侵略していった論法とまったく同じである。アメリカは海外での戦費がかさんで経済的疲弊をきたし、絶対的国家としての装備にばかり目がくらんでを失いつつあるといわれている。アメリカに代わってアジアにおける反中国・反ロシアの軍事的役割を担ってくれ、というのがアメリカの本音であるといえる。アメリカの凋落の現れといえる。保守的といわれる人たちはそこにかこつけてかっての軍事大国としての日本を打ち立てようとしているようである。しかし、日本の年々低下する国力の凋落と1000兆円を優に超える大量の国家債務は近い将来の国家的破綻を予見しているとある識者は警告している。この日本の停滞を打破する方法はただ一つ、未来のための大胆な人材と研究開発えの投資である。すでに実践している国がある。中国であり、シンガポールである。国力が増せば税収も増え、債務も減らせるであろう。軍事への投資は国家発展のためにかえって害になることがある。それを照明したのがロシアであった。人材と研究開発にあまり投資しなかったため旧態依然たる軍隊をふくらましただけに過ぎなかった。真の防衛は人材にあり、ということをよく考えてはどうかと思うのである。
 ここ最近、9条に対し、自民党から共産党まですげての政党が‘専守防衛’を認めている。自衛隊合憲論の高まりと自衛隊合憲判決の波、戦争体験世代の減少んなどで自衛隊に対するアレルギーが少なくなっているようである。 自衛隊の積極的な災害支援活動も功を奏しているようである。しかし、安倍政権から始まった国外での戦力行使を可能とした政策によって、国外への派遣を嫌って自衛隊員の退職が増加し、募集もままならなくなってきているといわれる。少子化の進行もあって若い人が減り、隊員の高齢化が進んでいて自衛隊の戦闘能力低下が懸念されている。おじさんたちが外国の若々しいおにいちゃんたちとやりあうという構図になるのであろうか。それに供えて徴兵制も敷かれるのであろうか。ところが若年層の年円の急速な減少がすすんでいて、ただでさえ働き手不測のなか、そのもくろみは難しいであろう。人材育成を怠ってきた政策のツケが回ってきたといえよう。それを、今頃になって少子化対策だと騒いでいる。防衛費対GDP2%にして軍事費を2倍の12兆円にしようとしている。装備ばかりに目がくらんで肝心の人材がおざなりにされている。真っ先に投資すべきは軍事ではなくて人材育成のはずである。
 もう一度、9条に立ち返ってみよう。
 自衛隊を戦力ではないと思っているのは内閣法制局ぐらいであろうか。現在、世界第9位の軍事費を持つ日本は数年後には対GDP2%政策によってロシアやインドを抜いて世界第3位の軍事国家になるといわれている。核保有国であるイギリス・フランス・ロシア・インドの規模を超えて軍事費を増やすことが自衛のためにここまで必要なのであろうか。疑問がふくらむばかりである。その姿にはかっての大日本帝国軍の復活を目論んでいるように見えて仕方ないのである。国外への示威行動ないし武力行使によって中国から台湾を奪い、ロシアから南満州鉄道の権益を奪って関東軍傀儡の満州国建国へと至り、軍事的威圧によって朝鮮を併合した。昭和に入ると、さまざまな軍事的謀略をおこして日中15年戦争を展開し、中国本土全域に戦線を拡大していった。そして太平洋戦争によって東南アジア・太平洋諸島を次々と占領してさらに戦線を拡大していった。それでも当時は日本防衛のためだと言い張っていた。国外の軍事行動を日本の防衛のためだとする有名なスローガンがあった。‘満蒙は日本の生命線’である。
 いにしえよりどこの国でも戦争を自国の防衛だと称して武力を発動した。侵略のためだと言った試しはなかった。歴史の教訓から学べることは、自衛とか防衛は建前であることが多いということである。今の岸田内閣はNATOに入って国外での軍事行動の範囲を拡げようとしているようである。9条の精神を守りたいとするならば、国外での軍事行動は一切許されないとはっきり主張すべきだと思うのである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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