33.LGBTQについて  (神谷湛然 記)

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  33.LGBTQについて

 今年23年6月にLGBTQ法案が不完全ながら国会でせいりつした。多様なありようが認め合えるような社会になってほしいと 願う私としてはとりあえずまず小さいながら一歩を踏み出したということでよしとすべきであろうか。
 LGBTQは身体と性自認が一致しないことをいうが、世界的にLGBTQが認知されつつあるようである。芥川賞作家の李琴美の著作にはLGBTQのことが詳しく描かれている。ただし、女性でありながら男性を好きになれずに女性を愛する人とか男性でありながら女性を好きになれずに男性を愛する人は身体と性自認が一致しているならばLGBTQとはならない。
 今、LGBTQに関してはトイレとか公衆浴場・温泉などで問題になっているようである。これまで男と女としか存在しないとしてきた観念からすればLGBTQは許されべからざる存在であろう。しかし、何をもって男とするのか、何をもって女とするのか、はっきりしているようで実は曖昧模糊としている。私の小・中学校の同級生の弟は仕草や顔立ち・体つきが女性的に見えて、いわゆる女性よりも綺麗に見えたものであった。女性として生まれるべきのものが男としてこの世に出てきたのだろうかと心の中で思ったものである。また、世間ではよく‘男のくせに’とか‘女のくせに’とかを耳にする。私の妻も私に‘男でしょ!’とけしかけて重たい荷物を運ばせることがある。私の知っているある家庭では100キロもあろうかという巨漢の奥さんがもやしみたいな痩せぎすのご主人を顎をしゃくるようにこき使っているのを見たことがあった。それでも別れないで何十年も一緒に暮らしているのだからそれで丁度いいのであろうかと思った次第である。
 
 本題のLGBTQに戻るが、トイレや浴場に関していえばすでにそれに対する対応は始まっているようである。一部の空港や大学・企業ではオールジェンダートイレの設置が進められていると聞く。男性トイレと女性トイレの間にオールジェンダートイレを設けて‘オールジェンダー’の表記とともに‘どなたでもご使用可能です’と書いてあるという。それがないところでは多目的トイレがそれに該当するであろう。性自認が女性だとして身体が男性である人が女子トイレに入ってきたらいわゆる女性が恐怖を覚えるのは当然であろう。それならば男・女の区別なくして共同トイレにしたほうがよいように思う。私が子供の頃過ごした田舎では学校も含めてすべてが男女共同トイレであった。男女別々のトイレの発想は欧米思想の賜物であろうか。今の日本人はほとんどが男女別々のトイレが当たり前だと思い込んでいるようであろうから、それを前提に考えるならばそれとは別の昔は当たり前であった共同トイレをオールジェンダートイレとして復活するものだと考えればよいのではないかと思う。オールジェンダーを認めると女子トイレを安心して使えないと騒いでいる人たちがいるが、彼らの言い分を聞いているとLGBTQは絶対に許されないという考えが前提にあるように感じられて、伝統的な男性観・女性観が当たり前だと思い込んでいるようである。
 浴場に関しては、日本では温泉や旅館・ホテルでは家族風呂とか貸切風呂のあるところが多くなっている。全盲である私は妻と一緒に貸切風呂を利用することがよくあるがとても助かっている。温泉風呂付客室も増えているようである。これらの浴室はある意味ではオールジェンダー風呂といえるかもしれない。銭湯や大型浴場施設であるスパでは貸切風呂のような‘オールジェンダー風呂’はあまりないようである。スパのなかには水着をつけて広い浴場空間を楽しむところがある。幼少児はともかく身体的に男性である大人が女性だと称して女性用風呂に入ってきたらいわゆる女性たちはパニックになって逃げ出すであろうか。ところで歴史的にはかっての銭湯は混浴が一般的だったといわれている。銭湯は江戸時代に盛んになり、入込(いりこみ)風呂という男女混浴が一般的であったという。ほとんどの人は風呂そのものを楽しんでいたのであるが、中には風紀を乱すものがあったようで、幕府はたびたび混浴禁止のお触れを出したが混浴の習慣は根強く存在し、ついに時の老中・水野忠邦の天保の改革によって混浴は完全禁止されて浴場の間にしきりを設けて男女別々の風呂形態が出てきたが、それでもその習慣は廃れることなく、明治になってからも政府は禁止をしても明治中期まで混浴文化は続いたといわれる。しかしながら、現在でも奥座敷といわれる温泉では混浴がある。私も若いころ家族と一緒に飛騨・穂高に自家用車で旅行した時、宿泊した上宝村(現在の高山市)の奥飛騨温泉の旅館には混浴風呂があって、今は亡き父が夜中にそこへ入りに行って湯煙り超しに若い女性の姿が見えて目の保養になったと喜んでいた。また、十年ほど前、正月明けに妻と妻の両親と一緒に和歌山の熊野本宮に詣でた時に泊まった川湯温泉の旅館では浴場の外に出るドアを開けて数段の階段を降りると広い河川敷に広い共同風呂が何か所かあって、男性は手拭い一丁で局部を隠して入り、女性は白い風呂用の浴衣を着て入浴することになっていた。私と妻が隣り合って入っていると妻の両親は恥ずかしく思ったのか私たちから遠く離れてばらばらに入っていた。ともあれ、日本人は古来から性についておおらかであったようである。
 LGBTQとスポーツについても問題になっていると聞く。男性から性転換手術をした人が女性種目に参加して表彰台を独占しかねないとか、いわゆる女性が体力に負けて決戦に出場できにくくなるとかいうことであるらしい。私はこの話を聞いた時、かってオリンピックでソ連や東ドイツの女子選手たちが主に競泳で筋肉ムチムチ金メダルを多くかっさらったことを覚えている。テレビでプールサイドにつかっている彼女たちの太い腕・太い首・太い胸周りを見て本当に女性なのだろうかと子供心に思ったものである。後日に筋肉増強剤や男性ホルモン投与があったことが明るみになった。当時はドーピングなるものがなかったと思う。今でも薬物疑惑は絶えない。北京冬季オリンピックで4回転の申し子といわれたロシアの当時15歳の少女が薬物疑惑僧堂でフィギュアシングルスで不甲斐な成績に終わったことは記憶に新しい。LGBTQに限らずいわゆる女性も含めて女性種目にエントリーする選手は全員生化学検査を義務付けて、例えば男性ホルモンであるテストステロンの血中濃度は何%以下に規制するとかなど科学的に管理していくことが必要となっていると思う。身体的に女性だからといって単純に女性だとはいえない時代だということである。
 LGBTQであろうと障碍者であろうと老若男女関係なく一人一人が暮らしやすい世の中を作っていくことこそが本筋ではなかろうかと思うのである。多様なありようをお互い認め合って協力しながら暮らしていくことのできる社会こそ危機打開と発展があると私は思うのである。20万年前に東アフリカで誕生した私たちの祖先、ホモ・サピエンスが今では地球のすみずみまで生息を拡げて数を大きく増やしている。これが可能と出来たのは他の生物にはみられない格段に発達した脳だけでなく神話という虚構の世界をも作り出せる認知能力の高さとともにお互いを補いあいながら協力しあいながら集団を作り、多様性を内包した群れであることもすでに指摘した。小さな子供の発想や発明が大きく世の中を帰ることがある。多様性のなせる‘わざ’といえよう。
 戦争は多様性を否定するところがあるようにみえる。グローバルという名のもとで特定の価値観や観念を普遍化しようとしているところがある。真のグローバルはそれぞれの多様性を認め合い尊重しあうことではないだろうか。日本の中枢は朝鮮系や中国系で握られていると言う人がいる。また、ダボス会議はユダヤ系の金融資本によって牛耳られていてそのユダヤ人によって世界に戦争や陰謀が行われていると言う人がいる。彼らの言動には中国や朝鮮・ユダヤに対する抜きがたい民族差別が強烈に感じられる。何をもって中国系といい、何をもって朝鮮系いい、何をもってユダヤ系というのであろうか。私たち日本人の祖先は全員が大陸からの渡来人であった。その渡来人も‘ユダヤ’もすべての人間は元を辿れば東アフリカの山中に至る。偏狭な民族主義・国粋主義に陥らないよう心しておかないと戦争の火種を持ち続けるハメになる怖れのあることを指摘しておきたい。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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