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43.極楽ということ
仏典の一つに阿弥陀経というお経がある。そのはじめあたりを私なりに意訳して以下に示してみる。
‘その時、釈尊は智慧第一と称される高弟のシャーリプトラに話された。ここからはるか何十億何百億もの離れたところに極楽という世界がある。そこには、無量無辺の光明に満ち溢れた宇宙真実光があり、阿弥陀といわれている。そして今、現在も宇宙真実の光明を説いておられる。
シャーリプトラは尋ねた。なぜその世界を極楽と名づけるのですかと。釈尊は答えられた。この世界の生きとし生けるものすべてには多くの苦しみがなく、たださまざまな楽のみを受けている、だから極楽というのだと。’
このやりとりの後に極楽の様子が述べられている。樹木も建物も池も地上すげてが金銀・瑠璃・メノウなどで彩られて光り輝いていることをいっている。そして、
「池の中に蓮華あり、大きなる車輪の如し。青き色には青き光あり、黄なる色には黄なる光あり、赤き色には赤き光あり、白き色には白き光ありて、微妙香潔なり。」
この極楽世界には、白い鳥やクジャク、オウムなどいろりろな鳥が飛んでいて、これらの鳥は皆、宇宙真実光明たる阿弥陀仏の姿と声だという。
すなわち、大地も山も川も池も植物も動物もあらゆるすべてが阿弥陀の姿であり声であり、光だというのである。広大無辺なる大宇宙の光だというのである。これはまさしく‘如是(ありのまま)’といえるだろう。
では、なぜその世界が「十万億の仏土を過ぎて」はるか遠い所にあるといわれたのだろうか。苦しみや悩みの絶えない‘五濁悪世’の世の中にあって極楽の意味を理解することのはなはだ難しいことを形容されたことばだと私は思う。実際、昔からたいていの人々は、極楽を死んでのち、往生していくあの世と思ってきた。‘我が世とぞ思ふ望月の、欠けたることも無しと思へば’と栄華を極めた藤原道長も死ぬときは極楽往生を願って阿弥陀仏に懸けた五色の糸を手に握ったといわれる。
では、その極楽世界に行くためにはどうすればよいのか。阿弥陀経は「一心不乱」に阿弥陀の名号を執持することだという。「一心不乱」については、いろいろな解釈があるが、私は、回数ではなく、純粋にただ執持するということだと思っている。「執持」とは、しっかりと持つということであって、その形は念仏であろうと坐禅であろうと日日の行ないであろうと阿弥陀という宇宙真実光を実践することだと私は理解している。それは、まさしく、観音経の‘一心称名’であり、道元禅師のいう‘只管打坐’だと。なぜなら、人間の変な癖・観念・思い込み・独りよがりをやめたところにこそ、真実光が現れるのだと信じるからである。
この世には、戦争・虐殺殺戮・弾圧・抑圧・収奪・地震や台風などの自然災害・理不尽な人的災害・病い・老い・障害・恨み妬み嫉み・憎しみ・悲しみ・嘆き・怒りが絶えない。衣食住に満ち足りて一見幸福そうにみえて実は心の奥底には深い闇を抱え込んでいる人がいる。まさしく苦しみの絶えない世界である。この世界のなかで、なぜ釈迦は家出して王の身分を捨ててアウト・カーストである不可触民に身を落として最も卑しいとされる糞泥色の衣だけを纏って乞食(こつじき)されたのだろうか。どうして、イエスは殺されるのをわかっていながらあえてエルサレムに入り、ユダの裏切りも許されて、ゴルゴタの丘でみすぼらしく痩せ衰えた姿で虚しく首をうなだれて十字架上で死なれたのだろうか。
釈迦やイエスのいわんとしたことは、飾りを捨てて丸裸の人間になりなさいと諭しているのだと私は思う。
苦しみの根本原因は、ありもしない上下関係・優劣・尊卑・善悪などの概念・価値観だと、何人かの人は指摘している。私もそう思う。殺人は悪とされる。日本では二人異常殺すと死刑にされる傾向がある。ところが、戦争ではたくさんの人を殺せば殺すほど英雄とされ、軍神と崇められる。盗みは悪とされる。ところが、徴発という権力による略奪という盗みは合法化される。
王であろうと乞食であろうと金持ちであろうと貧乏であろうと人間であろうとなかろうと一切の存在は命に優劣はなく、宇宙真実光だと偉大な賢者は説いているのではないかと思う。
しかし、キリスト教は中世ヨーロッパに暗黒の時代をもたらして封建軍事独裁体制への隷従を民衆に強要し、人々から巻き上げた財でもって教会上層部はぬくぬくと肥え太った。仏教は、日本においては鎮護国家宗教として出発し、江戸時代には厳しい身分制度の擁護者となって差別を助長する差別戒名を臆面もなくつけた(このことは水上勉の「良寛」に詳しい)。抑圧的な社会体制、卑しい身分を、‘あきらめ’と‘運命’だとして民衆に強制した事実はまさに‘宗教は阿片’と言わざるを得まいだろう。真の宗教者ならば、社会体制・秩序・身分は人間が勝手に作り出したものであって、王も乞食も命には上下・優劣・尊卑はなく、すべて同等だと言うべきである。そして、さらに、人間は万物の霊長類でも何でもなく、大いなる宇宙大自然の命の連関のなかで生きてあることを諭すべきである。
命は他の命を食(は)むことで命する。しかれども、命は、本来、必要以上に他を殺さない。それを行うのは異常に発達した脳を持つ人間だけである。その頭をマッサラにして丸裸の存在になることを、阿弥陀経は説き、釈迦やイエスは教えているのだと私は思う。
(追記)・・・
病いや老い、障害はそれでも苦しみではないかと指摘する人はいるかもしれない。イエスはらい病の人に言った。‘神の栄光の現れ’と。全盲の視覚障碍者となった私自身も今はイエスの言葉がわかる。らい病が悪いのではない。障害が悪いのではない。それを患った人を卑下し差別し抑圧することが悪なのである。それはそれとして命には変わりはないはずである。あなたはあなたで立派な神の光である、安心して行きなさい、とイエスは話されたのではないだろうか。治療できるなら治療しながら、病いの身を務めあげ、老い・障害の身を務めあげて、誰からも冒されることのない命の光を輝かせばいいのだということではないだろうか。
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