12.‘空’と観世音菩薩: 再び般若心経を読む  神谷湛然 記

/

  12.‘空’と観世音菩薩: 再び般若心経を読む

 般若心経はよく耳にするポピュラーなお経だ。しかし、‘空’とか‘無’とかいう文字が何度も出てくるので、読むたびにネガティブな感じが私にはしてしまいそうである。
 般若心経は、‘色即是空 空即是色’という有名な一句がある。これに照らしてみるならば、‘照見五蘊皆空’とともに‘照見五蘊皆有’と言うべきではないだろうか。であるがゆえに、‘是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減’も同時に、‘是諸法有相 有生有滅 有垢有浄 有増有減’と言わなければならないはずである。‘無’も同時に‘有’とするということである。修行において、‘無所得’の行をやかましく言われることがあるが、私は‘有所得’の行をも言わなければ片手落ちだと思う。有であっで無であり、無であって有である。お釈迦さんは‘一切衆生悉有仏性(すべてのものはみな仏性がある)’とおっしゃったが、中国の禅僧、大梅法常は‘一切衆生無仏性’と言った。
 なぜ、こんなことをくどくど言うのかというと、般若心経の本文の冒頭に‘観自在菩薩’という言葉があり、それは‘観世音菩薩’の玄奘三蔵による異訳である。そして、観世音菩薩について叙述している法華経の観世音菩薩普門品では、観世音菩薩の自由自在なる働きと姿の様を展開して諸法が実相なることを言っている。つまり、‘観世音菩薩’には諸法空相とともに諸法実相であり、諸法実相とともに諸法空相なることを理解しておく必要があるということである。言語的にはまったく矛盾している。この矛盾した言葉遣いをするのは、生命のはつらつとした働きと姿は頭の観念でしかない言葉とか概念ではとらえることができず、生身の私たちを生身で感じるしかないということだ。
 観自在菩薩とか観世音菩薩と聞くと、いわゆる‘観音様’と念想して、お寺にある仏像を多くの人は思い浮かべるのではないだろうか。実は、生身の生命を生きている私たちそのものを言っているのだと私は理解している。いろんな人間、いろんな生命の多様さとダイナミックな働きはまさしく観自在菩薩・観世音菩薩そのものではないだろうか。
 ‘なんか張り合いがないなあ’‘生きがいがない’‘マンネリ化して面白くない’‘ゆううつ’‘死にたい’・・・。こんなことを思うのは人間だけだといわれている。だからこそ、人間に宗教や哲学が生まれたのだといわれる。
 生きている限り、ほとんど意識することなく、心臓は休むことなく動き続け、息を吸い吐くことを繰り返している。体内で化学合成と分解が絶えず行われている。頭あっての体ではなく、体あっての頭という視点である。藤田紘一郎は「遺伝子も腸の言いなり 持って生まれた定めなどアリマセン!」の著書で、環境や生活習慣・食事・ストレスが遺伝子に大きく影響を与えていることを述べている。腸の具合が脳に多大な作用を与えていることをある医学研究者は指摘している。
 私たちは、無意識に頭が自分の主人公と思っているところがありはしまいだろうか。思ったり感じたりしながら動いている感覚がある。その思ったり感じたりするところのもとは何だろうか。それは、生活環境や習慣・くせ・体の具合から来ていることを多くの人が明示している。一言で言えば、環境による産物だということだ。
 和食は多くの外国の人は味が薄くて食べた気がしないという。私は薄味の和食に慣れているせいか大好きだ。中華料理も好きだが、油ギタギタと唐辛子にはときたま頂くにはよろしいかなといった按排である。しかし、東南アジアの人たちが好むココナッツには今でもなじめない。日本国内でも関東と関西の味はまったく違う。食文化一つ取っても、国によって、地域によって違うことはよく知られている。
 今日(2024年2月19日)、yahooニュースで女性医師に対しての医学界や病院での不当な扱いと待遇に奮闘しているある女性医師の話が掲載されていた。医学部入試で女性が不利な判定がされ、家事や育児などを理由に女性医師を敬遠する大学や病院がまだ残っているということだった。私は、60年近く前の子供のころ、暮らしていた村の診療所の先生は女性医師だったが村人からの信望は厚かった。夫は村の小学校の校長先生で、火事もこなしながら息子を医者に育て上げた。私の親も尊敬していた。しかし、日本では‘医師は男、看護師は女’という観念が相当強いことは否めない。今でもその風潮は残っていると思う。
 男尊女卑は日本社会に根強くあるが、奈良時代までの古代日本においては、現在以上に女性の地位が高く、女性優位といったところがあった。卑弥呼や神功皇后、多くの女性天皇が出現した。神道において、最上位とされる神は天照大神だが、この太陽神は女神である。古事記や日本書紀によって定められたものであるが、最高の神を女性とするのは日本以外では見られないことだ。中世の平安時代から男尊女卑が進んでいったようだ。藤原氏が自分の娘を天皇に嫁がせて天皇の外戚となって摂政・関白として権力をふるい、時代とともに儒教の影響もあって男の長子が天皇を引き継ぐといったしきたりになって今日に至っている。男尊女卑は日本古代まではなかったのである。
 社会においては、私たちの多くは高度に発達した科学技術文明社会を当たり前のものだと思っているではないだろうか。しかし、現在でも太鼓からの狩猟・採集社会を営んでいる人たちがいる。彼らを‘未開社会’として蔑視する心が私たちにありはしないだろうか。持続ある社会・SDGsが叫ばれている。どちらが持続ある社会となっているのだろうか。
 4000年前の縄文時代の遺跡である三内丸山遺跡から発見された直径5.5〜6.5センチの大玉の翡翠(ひすい)の固玉には穿孔があるが、専門家によれば、非常に固い固玉に孔をあけるのは現代技術でもってしも非常に難しく、それを縄文人が超高度の洗練された技でやっけのけていたということだ。どのようにして孔をあけたのか、わかっていないと専門家はいう。縄文社会を蔑むこと勿れ、ということである。
 食文化や男尊女卑の観念、そして社会のありようについて考えてきたが、要は、思いや感覚は外界からの作用によって頭にすりこまれたものだということである。こうだと思っている観念や思い込みを疑って、生命の地点からものごとを見る心構えが常に問われ続けられているということである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

神谷 湛然をフォローする
経典・経論
神谷 湛然をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました