48.浄と不浄について  神谷湛然 記

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  48.浄と不浄について

仏教思想のなかには、肉食や飲酒・妻帯は汚らわしいもの・不浄なものとされ、菜食・禁酒・不淫は浄なるものとするのがある。禅宗が尊ぶとされる楞伽経(りょうがきょう)には、肉や酒・五葷(ごくん)と呼ばれる臭いにおいのする五つの食物(ニンニク・ニラ・ラッキョウ・玉ネギ・ネギ)は汚らわしいものとして求道者は飲食してはならないと説いている。また、女性立ち入り禁止という女人結界思想を持つところがある。真言宗高野山は明治末期まで女人禁制だったため、女性は女人高野として女人禁制でなかった室生寺に詣でた歴史があった。
 私は、仏教思想の持つ浄・不浄観念の本質を理解するためには仏教の生まれた地であるインドの歴史と風土を知る必要があるように思われる。
 3500年前ごろに中央アジアからヒンズクシーを越えてインドにやって来た白色系民族であるアーリア人は、彼らの馬と高度な鉄器文化による圧倒的武力によって先住民や原住民を打ち負かしてアーリア人を支配層とするカーストが作られたといわれる。そして、被支配層となった先住民は低カーストないし、カーストから外れたアウト・カーストとしての不可触民という奴隷以下の虫けら同然の触れるのも汚らわしいダリド(ダリッド)という最下層に位置づけられたとされる。
 辛島貴子の「私たちのインド」(中公文庫)や池亀彩の「インド残酷物語 世界一たくましい民」(集英社新書)などインドに関する本を読んでみて思ったことは、仏教思想の持つ浄・不浄観は侵略民族であるアーリア人のもたらしたヒンズー教に源泉を持つことがはっきりしたということだった。
 低カーストでもカーストに入っている人は肉や酒を一切飲食しないのが原則のようだ。アウト・カーストである不可触民は不浄民だから肉食は問題ないようだ。最上層カーストのバラモンの出家者は菜食・禁酒・五葷禁食・不淫を浄なるものとして厳守する。カーストの人たちはさらに高いカーストに生まれ変わるためにバラモン出家者の生活を理想として、肉食飲酒禁止の‘浄なる生活’をしようとしているようだ。寒天は原料の海草が魚の触れるものであるから不浄だとして食べなかったインド人がいたという。逆に、魚はシープラント(海の植物)だからOKだとするインド人もいるらしい。なお、イスラム教に改宗したインド人は禁酒だが、ブタ以外の肉を食べる。キリスト教信者は牛肉も含めてどんな肉も酒も飲食し、仏教徒はヒンズー教ほど肉食飲酒にはやかましくないようだ。苦行主義と徹底した不殺生を説くジャイナ教は厳格に肉食飲酒を禁止する。パンも生きたイースト菌から作られるから不可という。ハチミツも花の蜜を集めるときにハチが殺されることが多いから不浄として口にしないという。偶像崇拝とカーストを否定し、唯一神信仰するシーク教は禁酒とし、牛肉は食べないがブタ肉を食することは許されているという。最下層の不可触民であるダリドは、カーストからの脱却を求めてキリスト教や仏教に改宗する人が多いようである。ちなみに、日本人はカーストに入っているインド人からすれば、肉食動物とみなされているようだ。
 また、インド人のあいだでは、肌色が白いほど尊ばれ、黒い肌は低級とされているという。支配層となった白色人種のアーリア人と隷従民となった先住民であるドラヴィダ人の褐色肌が関係しているようにみえる。
 インド社会では、生理や出産の時期の女性は血で汚れているから不浄とされ、その時期のあいだ、家の狭い一角に隔離されるという。台所仕事も禁止という。男の子が生まれると祝福され、女の子が生まれると落胆されるか、もしくは出産直後に殺されるらしい。そのためか、インドの女性は男性より人口が少ない(出生比率は男1に対して女0.78。通常は女1.05といわれる)。男尊女卑観念が強くみられる。女人禁制はそこから発展したのだろうか。
 支配民族となったアーリア人は自分たちをバラモンをはじめとする上層カーストに置くことで、その正当性を高めるために浄なる観念を純化していったようだ。 なにが浄であってなにが不浄なのか。歴史的政治的に形作らてていった形跡を私はみる。
 釈尊の仏教精神に立って考えてみるならば、浄なるとは宇宙真実と一枚になることであり、具体的には、食べるときには食べるのみ、掃除のときは掃除のみ、歩くときは歩くのみ。それを道元禅師は只管打坐と言い、一遍上人は念仏ばかりと言った。不浄とはそこから離れて執着心を起こして無知蒙昧になって、必要以上に欲望や観念をふくらまして現実から遊離することではないだろうか。肉食はだめで菜食は清らかというのは生命に対する冒涜に思える。野菜も牛やブタなどと同じ生命のはずである。酒も五葷も妻帯も許されないとする規定も私には一つの執着にみえる。酒は適度ならば百薬の王となり、また人間関係をまろやかにすることがある。要は用い方である。五葷も豊富なビタミンB1を含んで糖代謝を促進してエネルギーを生み出し、胃腸を上部にし、免疫力を高め、スタミナを増進させる作用がある。五葷の忌み嫌う本質は臭いにおいのせいではないだろうか。自然薯や大和芋は臭くないが精力のつく食物である。精力が強くなって修行の邪魔になるという考えがあるが、それは修行の方向性がぼやけているせいではないだろうか。
 妻帯をしないこととか不淫は浄なるとするのも一種の執着にみえる。私たちは両親のあいだから生まれている。それが生命の姿である。単細胞生物の自己分裂からはじまった生命はさらなる生命の強靭化を求めて雌雄同体生物、さらに雌雄が分かれて雌個体と雄個体との交合による繁殖へと進化した。植物も虫も動物もほとんどが雌雄別々の個体となっている。釈尊やイエス・キリストは聖母処女懐胎によって誕生したという話がある。男女交合による誕生は不浄だからなのだろうか。宗教には男女の営みをいかがわしいとみる傾向があるようだ。生命の姿をみようとしない宗教は存在価値がないと私は考える。妻帯しようがしまいが、問題は一人一人が独立した個人として宇宙生命を実践していくことではないだろうか。釈尊が出家して置き去りにされた妻のヤソーダラーと子のラフーラは、のちに、カーストを否定して出身・身分・階級・男女・肌色に関係なく一切衆生救済を掲げる釈尊の教団に馳せ参じて出家し、釈尊と共に真実の道を歩もうとする同行者となった。‘一切衆生 悉く仏性有り’の実践である。
 戒律を何百ものたくさん作って、それを守ることが浄であり、真実の道だと思い込んでいる人たちがいる。本質は何なのかを見失ってがんじがらめに束縛されて生きるのに汲々する様は、イエスの批判した律法主義者そのものではなかろうか。おおらかに悠々と命を生きたいものである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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