49.不殺生について  神谷湛然 記

/

  49.不殺生について

 前稿で「浄と不浄について」を書きながら、不殺生についてもっと考えてみたいという気持が強くなってきた。「24.戒、とくに不殺生戒・不飲酒戒・不邪淫戒について」の稿では、仏教の一部にある肉食禁止は中国伝来と記したが、実は仏教誕生の地であるインドのバラモン教(ヒンズー教)に起因しているようにみえる。彼らの聖典であるマヌ法典では、肉食は魂を汚す恥ずべきもっとも下劣な行為としている。
 不殺生の‘生’とは、生命もしくは生物とみなせる。俗には‘生き物’と捉えられているようだ。‘生き物’とは、虫や動物のことと思われているようである。生物学では生物とは植物(海草も然り)も含めて生命を持つすべてのものを指している。‘生’とはなにか、宗教や宗派によってまちまちのようである。
 徹底した不殺生を説くとされるジャイナ教では、動物や虫だけでなく、微生物でさえも殺したり口にしたりすることを禁じている。土の掘り起こしは虫を殺しやすいから不浄とされ、ジャガイモや人参などの根菜類はその地面を掘り起こして収穫されるから不浄として食べないとしている(ただし、同じ地面下から収穫するショウガやピーナッツは可としている。私にはよくわからない)。歩く時も足で虫を踏んづけないよう細心の注意を払うという(公園を歩くとき、一足の下には15万個もの微生物がいるといわれている。真面目に徹底したらどこも歩けないように思えるが・・・)。パンもイースト菌を使うから、ハチミツはたくさんの蜂の犠牲によって作られるから口にできないという。発酵食品やキノコ・チーズ(チーズは、屠畜した仔牛の第四胃の凝乳酵素を利用して作るから、駄目)も不可とする。しかし、なぜかヨーグルトの一種であるダシーやバターはOKとしている。液体を飲むときも微生物を飲みこまないよう、ろ過するという話がある。徹底した菜食主だけでなく、日常の行動でも小さな動物の虫や微生物をも殺さないよう義務付けているとみえる。それを犯したときは不浄の身となって悟りへの道が遠のくとしている。
 バラモン教は、牛や豚・鶏・魚などのいわゆる動物の肉を食してはならないとするが、動物のエキスも不可とする。カツオだしの味噌汁は魚のエキスがあるからいただけないと言ったインド人がいたらしい。巻きずしのノリも不浄とする海草だから口にしないという。ヨーグルトなど発酵食品(パンも含めて)は普通に口にしているようだ。そして、肉食は殺すよりも汚れ、罪がかなり重いとされる。下位カーストから提供されたものや、下位カーストと共に食事することもぽ不浄とされている。外食は不浄になる可能性が高いのでほとんどしないらしい。
 イスラム教は、不浄とするブタ以外を食べる。牛も殺して牛肉を販売するムスリム商人がいると聞く。
 キリスト教は、牛もブタもどんな肉も食べる。キリスト教徒のインド人は堂々とビーフシチューや牛ステーキを食べるという。食するために牛や豚・鶏など殺す。
 仏教では、釈尊の時代では、不可触民からであろうと布施としていただくものは肉もふくめてすべて取捨選択することなく食したといわれる。出家者が肉食禁止となったのは釈尊無きあと時代が下ってからといわれる。在家信者には現在も肉食に寛容である。なお、出家者は、殺されつところや調理されているところを見なければその肉を口にしてもよいとする宗派がある。私が雲水時代の寺に参禅に来ていたタイ人の出家者はそう言っておいしそうに肉料理を食べていた。
 私が修行していた寺では、自給自足を基本として田畑を耕して米や野菜を収穫していた。無農薬・有機栽培のため、耕すときにはよくミミズを切った。野菜についた虫をピンセットで取り除いて、集めた虫を飼っていた鶏に与えていた。五葷(ごくん)と呼ばれる臭いにおいのするネギヤニラも作っていた。ニンニクや玉ねぎはお布施で頂いたり、時には買うこともあった。参禅者が持って来てくださったイカやイワシを私が典座(てんぞ)当番(台所当番のこと)として煮物やフライにしたこともあった。また、鶏の世話係をしていた私は間引きのために鶏を絞め殺して肉料理に提供したこともあった。堂頭(どうちょう)と呼ばれる住職が猟銃で仕留めたイノシシ を雲水たちが解体して食したこともあった。ビールや日本酒・焼酎などもあって、宴会や一日の終わりによく頂戴した。
 これを読んだ人のなかには、ひどい破戒僧そのものではないかと思ったかもしれない。しかし、私は、生命とは、生きるとは、を実生活から問いていると思う。生命はほかの生命を殺して食するにしか生きられないという現実を実感させるための修行だったと思っている。むやみに殺さず、恵に感謝して、生命が生命でもって生命していく、それを不殺生と私は感得している。
 釈尊は、不殺生は肉食とは別次元であって、人を殺すことなかれという意味で用いられたと思う。であるからこそ、托鉢でいただいたものは取捨選択することなく、肉でもキノコでもよろこんで食したのではないだろうか。
 戦争や殺人などで、憎い者・悪しき者として他人を殺すことを良しとする人たちがいる。そのなれの果てが核爆弾ではないだろうか。それこそ、生命をむやみに殺してついには己自身の生命をも殺めようとする人類の性(さが)は、不殺生を否定するもっとも悲しむべき行為ではないだろうか。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

神谷 湛然をフォローする
如是ということ
神谷 湛然をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました