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15.正法眼蔵 現成公案その2
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
(生身のいのちを学ぶとは、自己とは何たるかを学ぶことである。自己とは何かを学ぶということは、自己の思い量り・はからいをやめて生身のいのちの実践行に自分を忘れて自己のすべてを投げ入れることだ。自己の思い量り・はからいをやめて自己の思いをも忘れていくということは、一切のありようである宇宙生命という生身のいのちから働きだされて、自己とは何かをおのづと明らかに照らし出されるのだ。)
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己(たこ)の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうかつ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ。
(万法たる宇宙生命によって自己がとは何かをはっきりと照らし出されるというとは、自己という主体と他物・他者という客体との分け隔てがすこんと脱げ落ちて、自己という主体と客体とが一枚にさせられるのだ。悟りのあとかたを打ち消すということがある。悟ったら終わりということではなくて、その悟りをも打ち捨ててさらに新たな悟るという、不断なる悟りの実践を終わることなく続けさせていくことだ。悟りとは生身のいのちの働きだからである。悟りとは絶え間なく生身のいのちに立ち帰る実践を日々継続させていくことだ。)
人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝(しょうでん)するとき、すみやかに本分人(ほんぶんにん)なり。
(人が初めて真実のありようを求める時、はるかに生身のいのちのほとりすらからも離れてしまっていることがある。すでに自己に生身のいのちが授けられていて、そのいのちに気づいて実践するならば、すみやかに本来の面目たる仏という生身のいのちを生きる人そのものとなるのだ。)
人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる、目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辨肯(べんこう)するには、自心自性は常住なるかとあやまる。
(人が舟に乗って行く時、岸に目を向ければ、岸がこちらへ移動していると勘違いする。目をしっかりと舟に置けば、舟が進んで岸に近づいていることを知るように、自分の思い量り・はからいでもって宇宙生命たる生身のいのちをああだこうだと頭のなかで詮索するのは、自分の心と本性は、永遠不変に常に確固としてあると誤って思い込むことになる。)
もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらだぬ道理あきらけし。
(もし、日々の修行を親密に行って、今ここに行じるという地点に立ち帰ったならば、すべてのありようたる宇宙生命は自己の思い量り・はからいを離れたところにあるという道理がはっきりするだろう。)
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