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16.正法眼蔵 現成公案その3
たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
(たき木は燃えて灰になれば、決して灰からたき木に戻ることはない。しかれども、生身のいのちという仏法から見るならば、灰は燃えて後にできると思い、たき木は燃える前にあると考えてはならない。)
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
(こう知る必要がある。すなわち、たき木は、たき木というありようにあって、さきのちとか前後とかいう時間観念を断って、たき木はたき木として今ここにある、生身のいのちが今ここにたき木として現前しているということだ。同様に、灰は灰というありようでもって、のちさきという時間観念を断って、灰は灰として今ここに灰として生身のいのちを現前しているのだ。)
かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
(このたき木が燃えて灰になった後に、決してまたたき木にならないように、人が死んだ後に、決してまた生まれるということはない。)
しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。
(それを、生が死になるとは言わないのは、生身のいのちという宇宙生命から見れば、生という実体はなく、たただ現象として生があるだけだ。俊時瞬間に生き死にする諸法無常という活発発(かっぱつぱつ)なるとして瞬瞬新たなるのが生身のいのちの姿であり、このゆえに、生身のいのちたる宇宙生命を不生というのだ。死んでのちまた生まれるということにならないことも、生身のいのちから見れば当然だ。なぜならば生身のいのちは宇宙生命だからであり、その宇宙生命には死という実体はなく、ただ現象としての死があるように見えるだけである。このゆえに、不滅というのだ。転変していくのが生身のいのちであり、縁によって私という姿となって現前している。無数の生身のいのちのなかの一表現として現れている。生身のいのちからみれば私というのは一つの現象であり、生身のいのちそのものははじめなくおわりないがゆえに不生不滅というのだ。)
生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
(生も現象としての一時の姿であり、死も現象としての一時の姿にすぎない。例えば、冬と春の関係のようなものだ。生身のいのちという仏法から見れば、冬が春になるとはいわない。また、春が夏になるともいわない。冬という姿があり、春という姿があり、夏という姿がある。しかれども、どの姿も生身のいのちたる宇宙生命そのものだ。冬は冬であり、春は春であり、夏はなつである。それはそれとして前後裁断して今ここに生身のいのちを発現しているのだ。)
人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天(みてん)も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。
(人が悟りを得るとは、水に月が映るようなものだ。月は水に濡れず、水も月によって水のありようがこわされることはなく、水は水のままだ。月は広く大いなる光を放っているが、雫のような些細な水にも月が映る。満月も満天の星々も、草の露にも映り、一滴の水にも満月・満天の星々が映る。悟りを得るとは、一切合切が生身のいのちという宇宙生命にすでに満たされていることに気づかさせられるということだ。)
さとりの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙(けいげ)せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。
(悟りがその人をこわして違う人にしないで、その人はその人のままであるのは、月が映す水をうがって工作しようとしないで水は水としてそのままであるのと同じだ。人が悟りをさまたげないのは、一滴の露が、天空の月がその露に映ることをさまたげないのと同じだ。)
ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を検点し、天月の広狭を辨取すべし。
(生身のいのちの計り知れない深みと計り知れない大いなる高みを思うがよい。海や湖・大きな池のような大きな水には月が出ている限り月の水に長く映っているが、露のような小水はすぐに消え失せるので月のその水に映っているのはほんのひとときとはかなく短いのを見る。また、天空の月にはさまざまな月があって、満月のような時もあれば、三日月のような時もある。しかれども、生身のいのちという月は、縄文杉のような命の長いものにもカゲロウのような命の短いものにも、象のような大きなものにもミジンコのような小さなものにも、生身のいのちという月がどんな姿であろうと、一切合切が等しく、生身のいのちという宇宙生命そのもので満たされていることをよく知っておくべきである。)
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