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20.普勧坐禅儀その1 神谷湛然 意訳
‘なぜ、あらゆる人々に坐禅を勧めるのか’
原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通(どうもとえんづう)、いかでか修証を仮(か)らん。宗乗自在、なんぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。いわんや、全体はるかに塵埃を出(い)づ、たれか払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。おおよそ当処を離れず、あに修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。然れども、毫釐(ごうり)も差あれば、天地はるかに隔り、違順わずかに起れば、紛然(ふんぜん)として心を失す。たとい、会(え)に誇り、悟(ご)に豐かにして、瞥地(べっち)の智通(ちづう)を獲(え)、道を得、心を明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にゅっとう)の辺量に逍遥(しょうよう)すといえども、ほとんど、出身の活路(かつろ)を虧闕(きけつ)す。いわんや、かの祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐(たんざ)六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)なお聞こゆ。古聖(こしょう)すでに然り、今人(こんじん)なんぞ弁ぜざる。ゆえに、須(すべから)く言(こと)を尋ね、語(ご)を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。須く回光返照(えこうへんしょう)の退歩(たいほ)を学すべし。身心自然(じねん)に脱落(だつらく)して、本来の面目(めんもく)現前せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲(ほっ)せば、急(きゅう)に恁麼(いんも)の事を務(つと)めよ。
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(意訳)
考えるに、生身の命はもとよりすでに一切に行き渡っているのに、どうしてわざわざ修行して悟りを得る必要があろうか。生身のいのちは自由自在に活動しているから、なんとかしてそのいのちを実現しようとあくせくする必要があろうか。生身のいのちたる宇宙生命は一かけらのホコリにも汚されることなく燦然と輝き、拭い去るべきホコリが全くないからなんとか綺麗にしようとする必要もない。生身のいのちは今ここを離れないで活動している。どうしてわざわざ、修行という作業をする必要があろうか。しかれども、生身のいのちはもとより行き渡っているとしても、その生身のいのちを究め尽くそうとする行いなくして、私たちにはその生身の命は現前しないことの道理をよく思うべきである。生身のいのちを究め尽くそうとする行いとは、ただ、生身のいのちを生身のいのちとして、自分の思い量り・はからいを一切捨ててその行いをただ行うのみである。そこのところがちょっとでもいい加減になると、私たちは、天と地の間の距離よりもっとはるかに生身のいのちから遠ざかってしまい、良い悪いの二見のよけいな分別が起これば一気に生身のいのちを失ってしまう。たとい、よく深く理解していることを自慢し、悟りさらに大いに育てていき、あらゆることがわかり、生身のいのちの道理がわかり、生身のいのちとそれに通じる自己の正体を明らかにしようとして、天をも突こうとする大いなる志でもって生身のいのちの辺えりさすらうとしても、大抵は、自己に働いている生身のいのちの働きをそこねている。心馳せるべきである。釈尊の行じた六年にわたる坐禅のあとかたお。達磨大師が少林寺の洞窟で壁にむかって坐禅し続けた九年の有名な話があるのを今なお聞こえてくる。昔のすぐれた人たちの行いもこのようなものだ。私たち今生きているものはこのことをよくよく思うべきである。だから、経典や経論などの言葉や理屈を理解しようとするの必ず止めるべきである。必ず、自己の方に生身のいのちの光を巡らして自己の本体をその光でもって照らし出される、自己を生身のいのちから明らかにされるままにおく、すまり絶対他力を行じるべきであるということだ。そうすれば、心も体も自然とひっかかりが抜け落ちて生身のいのちと一枚になって、もともと生身のいのちと一体である自己が生身のいのちのままで現れ出るのだ。‘何’としか言いようのない、私たちの頭では捉えることのできない生身のいのちのありよう手にしようと思うならば、のんびりすることなく急いで‘何’という生身のいのちを怠ることなく行じることだ。
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