21.普勧坐禅儀その2  神谷湛然 意訳

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  21.普勧坐禅儀その2  神谷湛然 意訳

 夫(そ)れ、参禅は、静室(じょうしつ)宜(よろ)しく、飲食節(せつ)あり。諸縁を放捨(ほうしゃ)し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。あに坐臥(ざが)に拘(かか)わらんや。
 尋常(よのつね)、坐処(ざしょ)には厚く坐物を敷き、上に蒲団(ふとん)を用う。あるいは結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)。いわく、結跏趺坐は、まず、右の足をもって左の腿(もも)の上に安(あん)じ、左の足を、右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、ただ、左の足をもって、右の腿を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(いたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。両(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相拄(あいさそ)う。
 乃(すなわ)ち正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち、右に傾き、前に躬(くぐま)り、後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて、唇齒(しんし)相著(あいつ)け、目は、須(すべから)く常に開くべし。鼻息(びそく)微(かすか)に通じ、身相既(すで)に調(ととの)えて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(さゆうようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底、如何(いかん)が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。   
 いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。公案現成(こうあんげんじょう)、羅籠(らろう)いまだ到らず。もし、この意を得ば、龍の水を得(う)るがごとく、虎の山に靠(よ)るに似たり。当(まさ)に知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)まず撲落(ぼくらく)することを。もし、坐より立たば、徐徐(じょじょ)として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。
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(意訳)
 坐禅は静かな室内で行うのがよい。坐禅に当たっては飲食はほどほどにしておくのがよい。あらゆる関わりや用事を片づけて煩わす一切から離れ、すべての事柄を横に置いて、なにが善とかなにが悪とか思わず、なにを気にいるとかなにを気にいらないとか考えることはしないことだ。思いや考え事をやめ、なにかを念想したりなにかの観相を抱くはからいをやめ、仏になろうとする思いやはからいはしてはならない。だからと言って、なんとなく坐っているということではあってよいものだろうか。単なる坐るではないのだ。
 通常、坐禅するところには座布団のような厚みのあるものを敷き、その上にお尻を安ずるための坐蒲(ざふ)のような蒲団を置く。そして、そこで結跏趺坐、もしくは半跏趺坐する。結跏趺坐とは、左の足を右の太腿の上に置き、右の足を左の太腿の上に置く。半跏趺坐は、ただ、左の足を右の太腿の上に置くだけである。衣や帯は窮屈にならないようゆるく身につけて、乱れのないように衣服を整えてちゃんとすべきである。次に、右の手を左の足の上に置き、左の掌を右の掌の上に置く。両方の親指をの先を互いにつけて法界定印(ほっかいじょういん)をつくる。
 それから、まっすぐに坐って、右に左に傾くことなく、前かがみになったり後ろにそらして仰ぐことのないようにせよ。耳と肩とが左右バランスよく対照的に整え、鼻と臍がまっすぐに垂直に位置するようしなければならない。舌は上の口蓋につけ、上下の歯と唇は閉じて、いわゆる‘しっぺい口’にし、目は常に必ず開けておくべきである。呼吸は鼻で静かに行う。坐禅の姿勢が整ったならば、深呼吸を一息して左右に体を揺らして動かざること山のように坐禅して、この坐禅の考え事をしない道理を思えよ。考え事をしないという道理とはなんぞや。思いにあらず、考え事にあらず、ということである。ただ坐禅を坐禅していくのみである。これこそ坐禅の要であり、最大のポイントである。
 いわゆる坐禅は習熟してさらなる境涯を得ようとするものではない。その坐禅事態そのものが即、ただ身も心も安楽にするやり方なのだ。生身のいのちを究め尽くそうとする行いそのものであり、生身のいのちの現前であり、その生身のいのちを束縛する思いやはからいは現れでることはいまだに全くない。もし、この意味が分かったならば、龍が水得たように、虎が山を手にしたように、生き生きと生身のいのちが働きだす。まさに以下のことを知るべきである。生身のいのちがおのづから現前し、思い煩いや思い煩いに沈むことによる心の暗闇(居眠りのこと)が、真っ先にごっそりと脱け落ちることを。もし、坐禅から立ち上がるときは、まず少しづつ身を動かして坐禅を解き、ゆっくりと立つことである。バタバタと乱暴に、または急いで立ってはならない。坐禅は終わったあとも坐禅である。今ここをゆるがすことなく丁寧に行うことである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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