22.普勧坐禅儀その3  神谷湛然 意訳

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  22.普勧坐禅儀その3  神谷湛然 意訳

 嘗(かつ)て観る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、この力に一任することを。いわんや、また、指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、払拳棒喝を(ほっけんぼうかつ)挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未だこれ思量分別の能く解(げ)するところにあらず。
 あに、神通修証(じんづうしゅしょう)の能く知るところとせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし。なんぞ知見の前(さき)の軌則にあらざるものならんや。
 然れば則ち、上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶことなかれ。専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正にこれ弁道なり。修証自(おのずか)ら染汚(ぜんな)せず、趣向(しゅこう)更にこれ平常(びょうじょう)なるものなり。凡(およ)そ夫(そ)れ、自界他方(じかいたほう)、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印を持(じ)し、もっぱら宗風を擅(ほしいまま)にす。ただ打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。万別千差(ばんべつせんしゃ)というといえども、祗管(しかん)に参禅弁道すべし。
 なんぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛却(ほうきゃく)して、みだりに他国の塵境(じんきょう)に去来せん。もし一歩を錯(あやま)れば、当面(とうめん)に蹉過(しゃか)す。既に人身の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ることなかれ。仏道の要機を保任(ほにん)す、誰(たれ)かみだりに石火(せっか)を楽しまん。しかのみならず、形質(ぎょうしつ)は草露(そうろ)のごとく、運命は電光に似たり。倐忽(しゅくこつ)として便(すなわ)ち空じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。冀(こいねがわ)くは、其れ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習って、真龍(しんりゅう)を怪(あやし)むことなかれ。直指端的(じきしたんてき)の道に精進(しょうじん)し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴(そんき)し、仏仏の菩提に合沓(がっとう)し、祖祖の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為さば、須くこれ恁麼なるべし。
 宝蔵自(おのずか)ら開けて、受用如意(にょい)ならん。
    *    *
(意訳)
 昔にあった話に出てくるところの、凡人とか聖人とかの概念をはるかに越えたありよう、坐禅したまま命つきるとか立ったまま亡くなるとかのいわれもこの生身のいのちの力に全くよるものだ。ましてや、また、指頭や竿頭を用い、あるいは針をつかんだり、つちを手に取って見せ示したりしたこれらの働き、そして、払子を振ったり鉄拳でなぐったり棒で打ち叩いたり一喝してどやしつけたりの、生身のいのちを現前させようとしたこれらの働き、これらのありようは頭では理解できるものではない。
 どうして、頭では推し量れない行いを理解することができようか。いわゆる、世間的なことばやふるまいを越えたありようであることを見るべきである。どうして、理屈での理解を越えた問題提起ではないと言えようか。
 だから、身分の上下とか頭がよいとか悪いとか関係なく、頭の回転の早い人とか物分かりの鈍い人とかを選別してはならないのだ。生身のいのちへもっぱら工夫することが、まさに、生身のいのちへの行であり学びなのだ。生身のいのちの行は自然と思い量りやはからいに汚されることなく、生身のいのちの行いのむかうところは、いっそう当たり前の日常となるのだ。概して、自分の世界とか他の世界とか、仏教の生まれた西方のインドとか仏教伝来してきた東方の中国や日本とか関係なく、あらゆるすべてのものに等しく、生身のいのちという印を持ち、もっぱら、生身のいのちの風を思いっきり行き渡らせている。ただ坐禅につとめて、動かざること山のごとしの坐禅によって思い量りやはからい・考え事や居眠りが打ち払われる。どんな人であろうと、ひたすら坐禅に参じ、行じ学ぶべきである。
 どうして、自分の坐るところを放り投げて、なにかましなところはありはしないかと妄りに他所(よそ)のところへさまよう必要があろうか。もし進べき方向が少しでも間違えれば、自分の出会う目の前のありようを見失う。私たちは、すでに人間に生まれて人間の能力と働きを得ている。むなしく年月を送ることはしてはならない。生身のいのちの働きを身に持っている。それが分かっている人ならば、その生身のいのちを放り投げて火打ち石の発する火のようなほんのつかの間の楽しみに妄りに溺れてよいと思う人がいるだろうか。それだけではなく、肉体は草につく露のようにはかなく、命は雷光のように短い。あっという間に存在がなくなり、あっという間に命を失う。私(道元禅師)の望み願うところは、生身のいのちを学ぼうとするすぐれた方々が、例えば目の見えない人が巨大な象をあちこち長らく触ってこれが象なるかと想像するように、生身のいのちを暗中模索を続けることであり、そのことの行には生身のいのちたる真龍はあるものかとうたがってはならない。じかにそのままで生身のいのちを現前するありように怠ることなく勤め、思い量りや分別・はからい・理屈を越えた真実の人、すなわち生身のいのちそのものの人を尊び、生身のいのちと一体になり、生身のいのちへの絶え間ない参究をし続けた昔のすぐれた人たちのあとかたを引き継げよ。やむことなく、‘何’たる生身のいのちを現前すれば、必ず、‘何’たる生身のいのちそのものである。
 生身のいのちという宝を納めた蔵の扉がひとりでに開いて、生身のいのちという宝がひとりでに手に受けて、生身のいのちという宝を意のままに自由自在に働かせることができるだろう。

          (普勧坐禅儀 終わり)

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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