/ 57.魂は存在するのか
宗教の世界において、よく用いられている‘魂’ということについて考えていきたいと思う。
宗教界でよく使われる‘魂’の定義は、肉体が滅びても存在し続けているもので、永遠不滅のものだとされる。いわゆる霊魂と同義語とみなしてよいだろう。私たちの中にある‘魂’は、私たちが生まれる以前はある人の中に宿っていたかもしれないし、人ではなくて何かの動物や植物・石や山や川などのなにかのモノに宿っていたかもしれないとされる。私たちの肉体が死ぬ時、‘魂’はその肉体から遊離して、その‘魂’に積み重なっている経験や業(ごう)に応じて別の人間に入ったり、ある動植物やモノに宿ったり、場合によっては宿るところが見つからなくて空間を彷徨っているともされる。ヒンズー教では、現世で‘いい行い’を積んだ人は死んでのち、より高いカーストとかやんごとない資産家の家に生まれ変わると説いているようだ。
キリスト教やイスラム教の世界では土葬が尊ばれている。火葬は邪道とされている。なぜなら、死後の審判を仰いで天に召されることを臨むために、審判の日まで魂の宿る場所として、死に体となった肉体は保存しておかなくてはならないようである。文豪ゲーテの大作である「ファウスト」は、キリスト教の‘天にまします神のみもとに昇天せんことを’という願いをモチーフとして、毒をあおって滅びた肉体から遊離したファウストの魂の愛と美を求める遍歴物語である。
私たち日本人の一般的な宗教的行為も死者の魂の平安を祈ることだといえるだろう。葬式や法要、彼岸や盆の墓参りなど、多くの人が死者の魂への供養と位置づけているだろう。自分自身がいつかは訪れてくるであろう‘死’ということについてよく考えておくべき機会だと思っている人は少ないだろう。
私は、宇宙や地球の成り立ちや歴史をいろいろと調べて思ったことは、‘魂’は人の作り出した想像の産物でしかないとはっきりと断定できたことだ。
宇宙のある時点で発生した巨大恒星の超新星爆発によって生じた大量の破片とガスの一部がとある場所で集合し、その99%が結集して太陽を形作り、残りの1%が地球などの惑星や衛星、小惑星などをそれぞれ結集して形成されたとされている。私たちの住む地球は形成当初、多数の隕石や火星ほどの小惑星がぶつかり合ったり衝突したりしてマグマ・オーシャンと呼ばれる火の玉だったと地球物理学はいう。永遠不滅とされる魂が燃え盛る地球にはたして存在し得たのか、はなはだ疑問に思う。もし、魂が超高温でも絶対温度0度という超低温でも、爆発や破壊にも動じない存在だとするならば、その魂はクォークやニュートリノなどという素粒子としなければならないだろう。つまり、魂とは宇宙の根本単位である素粒子ということになる。
科学の発展がなかった近代以前なら、魂という想像物はそれなりに意味を持ち得たであろう。しかし、現代を生きる私たちは、たとえ宗教の教えだとはいっても、いつまでも幼稚な概念である魂なるものの束縛から解放されるべきのように思う。
私たちは、永遠といいようがない宇宙の、絶え間ない活動の中で、無限の連鎖の中で生じている存在のはかなさと偶然としかいいようのない、有り得ることの稀な存在として今あることの有難さを思い、感謝の念を持つことこそが私たちの心を清浄にし謙虚に生きる姿勢となるのではないだろうか。それこそが宇宙生命に順じるということであり、それが神とか仏などと形容されるありようではないかと思うのである。
生まれるとは何か、死ぬとは何か、そもそも自分はいったい何者なのか・・・、‘死’に真正面から向き合う機会のひとつとして、葬式や法要・墓参りなどを考えていただければ人生に深みを与えてくれるきっかけのひとつになるだろうと思うのである。
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