58.業(ごう)ということ  神谷湛然 記

/  58.業(ごう)ということ

 業(ごう)ということばを仏教でよく使われている。インドではそれを‘カルマ’と呼んでいる。
 不治の病になったのは業が深いからだ、とか、こんなみじめな境遇になったのは自分の為した業の報いだ、とかなど、ネガティブな意味合いで使われることが多いようだ。なにかしら、業というのは、罪と同義語のように私には聞こえてくる。
 教義上では、業には善業・悪業・無記業というのの三つがあり、善い行いをすれば良い結果を招き、悪い行いをすれば悪い結果を招き、善でも悪でもない行いは影響を与えないということとしている。要するに、業は行いやその積み重ねということであり、善となったり悪になったりするのだということだろう。しかし、現実には私にはどうも納得しかねる概念だ。
 私は中途失明して全盲となっている。いわゆる業理論に従がえば、盲人になったのは前世も含めて今まで悪い行いをしてきたのが悪業となってその報いとして現れたのだということになる。確かに私は心に恥ずべきことをしたこともあった。それでもそれなりに善い人だろうと思い込んでいたが、よくよく思えば悪いこともした。子供のころ、すでに聴覚障害を患っていた自分が同じ集落にいた同年代の知的障碍者を鬱憤晴らしによくいじめたことがあった。学生時代に宗教活動や学生運動をして親を困らせたことがあった。社会に出ても独りよがりになることもあった。三十になって人生を清算しようとして仏門に入った。それでも視力低下は止まらず、今やかずかな光だけを感じる全盲となってしまった。仏門に入ってもそれ以上に悪業が深いということだろうか。不治の病やみじめな境遇など、生老病死に苦しむ多くの人々に業理論は救いの手を差し伸べることはできないように思う。善因善果とか悪因悪果とかいわれるが、私には、善因悪果、悪因善果のほうがはびこっているように思うのだ。つまり、正直がバカをみるということだ。なにが善なのか、なにが悪なのか、よくよく考えてみれば、わからなくなることがある。
 1995年3月に地下鉄サリン事件をおこしたオウム真理教の麻原彰晃は悪人だと世間は見る。そして、令和になる直前の2018年7月に国家によって死刑として殺された。国家による殺人は善とみなされているようだ。拡大解釈すれば、国家による戦争という殺人行為も善として正当化されることになるだろう。盗みは悪とされる。ところが、軍隊が徴発という名目の盗みは善とされる。脱税は悪というが、政治家の‘裏金’という脱税は合法化されている節がある。
 このようなことを思った時、善悪という観念を越えた物の見方が必要になってくるのではないかと思う。
 もともと業という観念は、カーストを宗旨とするヒンズー教にあるといわれる。前世の行いによって今のカーストに生まれ、現世においてよい行いを積んでいけば来世にはより高いカーストに生まれることができるとされる。生まれ変わり死に変わりしながら積み重ねてきた行いが業となって今にあるということだ。これを難しく言ったのが輪廻転生(りんねてんしょう)である。しかし、現実には、インドでは‘カエルの子はカエル’となっていることが指摘されている。バラモンはバラモンであり、不可触民は不可触民となっている。そういうカースト制から脱却するために、キリスト教やイスラム教、仏教などに改宗するインド人が少なくないようである。
 釈尊は一切衆生悉有仏性を唱えてカースト制打破を訴えた。つまり、悟れば輪廻転生から脱け出て業を克服できるとした。不可触民であっても今ここでバラモンになれるのだといった。原始仏典といわれる法句経には、行いによってバラモンとなり、行いによって不可触民となると記されている。業というものは、宿命でも運命でもなく、真理を悟れば一気に業は消滅して仏の地位に即刻に至るということだ。
 仏教経典では、殺人や強盗など悪事を働いた者が悟りを得て菩薩となった話がよく出てくる。私の好きな「証道歌」にもその話が展開されているところがある。そして、その経典は仏教は単なる道徳論ではないと強調している。業という観念を超越してまっさらな自己になることを釈尊はいいたかったのではないかと思うのだ。
 新約聖書のヨハネ伝には次のようなくだりがある。
 イエスら一行が旅の途中にひとりの盲人に会った。弟子のひとりがイエスに、あの人はなぜ盲目になられたのですかと。イエスは答えた。その人のせいでも親のせいでもなく、ただ神のみわざの現れだと。
 私はその話を得度したてのころはじめて知ったのだが、その時は、神からの罰だと理解して障碍者差別を助長するものだと思った。今はまったく違う捉え方をしている。すなわち、盲人だろうと蔑まされたりみじめに思ったりする必要はない、その人はその人のままで立派な神の子となれるといったのだと。
 不治の病になろうと、みじめな境遇にあろうと、悲観にくれたり卑下したりする必要はまったくない、ひとりの堂々たる人間として人生を輝かせなさいと、励ましているのではないだろうか。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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