28.年頭にあたって:自由なる飛翔へ・・・金剛般若経を読んで  神谷湛然 記

/  28.年頭にあたって:自由なる飛翔へ・・・ 金剛般若経を読んで
 2025年は金剛般若経に因んで、「自由なる飛翔へ」と題して書き始めたいと思います。
 金剛般若経は、あの有名な般若心経よりも古く、紀元1世紀から2世紀初めごろに成立したといわれまづ。この経典は、「空」という語句は無く、釈尊とその弟子の一人であるスブーディ(経典では須菩提とされています)とのやりとりで展開されています。
 この金剛般若経の核心は、「応無所住而生其心」だと思います。‘まさに住するところ無くしてその心を生ずる’と書き下しされます。固定観念にとらわれてはならない、という意味です。「其心」とは、「応無所住」という心です。中村元によれば、サンスクリット原典では、とらわれた心をおこしてはならない、とされているようです。そのことを以下の例のように逆説的に述べています。
    *    *
 ‘如来はあらゆるものを滅度(救う)したというが、実はひとりも滅度してはいないのだ。もし、滅度したというのなら、その如来は如来ではない。なぜなら、その如来は自分を、存在を実体視してそれにとらわれているからだ。如来は滅度したものがひとりもいないがゆえに、如来はあらゆるものを滅度したのだ。’
 ‘悟りというものは実はないのだ。悟りがないがゆえに悟りがあるのだ。’
 ‘仏法を説いたというが、実はひとつも説いてはいないのだ。説くべき仏法などひとつもないのだ。仏法がないがゆえに仏法はあるのだ。’
 ‘仏とは立派な特徴を備えているだろうか。実はまったくそんな立派な特徴は供えてはいないのだ。姿形や声などにとらわれたものは仏を見ることができない。仏は立派な特徴を備えていないがゆえに、仏は立派な特徴を備えているのだ。’
    *    *
 このように、‘Aとはいうが、実はAというものはないのだ。AなるものがないがゆえにAなのだ’という論法が展開されています。
 私はこう読みます。
 如来という観念、仏という観念、救いという観念、悟りという観念、仏法という観念、真実とか虚妄という観念など、あらゆることに固定観念やとらわれをもってはならないと戒めているのだと。
 仏と聞いた時、みなさんはどんなイメージを仏に思い浮かぶでしょうか。もしかしたら、お寺にある、仏像のようなものを思う人が多いのではないでしょうか。‘仏さまのような人だ’という時、おだやかな、いつも微笑みをたたえている温和な人と思うのが普通ではないでしょうか。しかし、金剛般若経は、そんなものは仏でもなんでもない、仏などそんな決まったものはない、と喝破しています。‘仏’とは、‘諸行無常 諸法無我’という、万物流転して転変して自由自在なるありようを形容しているということです。そして、私たちが持つべき‘仏’のありようとは、‘愛して愛にとらわれず、憎んで憎しみにとらわれず’ということでしょう。
 煩悩をなくすということは、喜怒哀楽やきれい、きたない・うまい、まずい・心地よい、不快などの感情や思い、感覚などを捨てろというものではないはずです。そうであるならば、その人は死人ではないでしょうか。そういう感情や感覚は生きるものとして当然だと思います。問題は、それに固執してこだわることにあるということです。
 般若心経では、「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」などと言っています。この‘無’を、私は‘無限’と解釈しました。なぜなら、多様な感覚器管のありよう、多様な感覚世界があるはずです。人によって見る世界、感じる思いが違うことはよく経験するところでしょう。それを参同契では「色もと質像異にし、声もと楽苦異にす」と述べています。人によって、またはその人も時によってさまざまにありようが転変していく様があるのだということでしょう。
 以上のように考えて見たとき、私たちは多様な生き方と存在を認め合いながら、それぞれが自由自在にそれぞれの生命をそれぞれ発揮していくことがいのちの姿だと思います。
 私たちは広大無辺なる宇宙の営みのなかで、偶然に有りて在るといわれますが、この宇宙とはなんなのか、現代科学で解明されているのはほんの4%ほどしかなく、残りの96%は未だにわかっていないといわれています。しかも、わかっているとされる4%も、たえず飛び跳ねて動き回るエネルギーの塊みたいなものが点滅していくという、得体のしれない存在のようです。有るようで無く、無いようで有る。量子物理学はそれを提示しているようです。
 金剛般若経の最後は、この現象界は露・雷光・夢・うたかた・幻のようなものだ、といっています。‘如露亦如電 応作如是観’です。一見、方丈記や平家物語のいう無常観に思われて、この世が虚しいものに感じてしまいがちですが、私はそうネガティブにとらえるべきではないかと思います。すべてのものは常に転変してとどまっているものはなにもない、自由な、柔軟な心をもって、それぞれがそれぞれの生命の火を闊達に燃やしていけばよいのだと思います。
 「水鳥の 行くもかえるも 跡絶えて されども道は忘れざりけり」
 道元禅師の和歌です。水鳥は跡を残さずに自由自在に大空を飛び回っている、けれども決して迷うことなく行くべき道を忘れずに進んでいる、という意味でしょう。固定観念にとらわれることなく、自由自在に大いに命を生きよう、と呼びかけているように私は思います。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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