/ 75.無所得ということ
「無所得」は、仏教でよく耳にすることばである。有名な経典である般若心経にも展開される‘無’の総まとめとして「以無所得故(無所得をもっての故に)」と記述されている。私の修行した安泰寺でも、「無所得の坐禅」だとか「無所得の行」だとかとよくいわれたものである。しかし、‘なにも求めない’とは何なのか、そのことがはっきりしていないと、‘堕落禅’ないし‘堕落行’になってしまうのではないかと私は経験から思う。
道元禅師は『普勧坐禅儀』の中で、「万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。」と言っている。現代語訳すれば、‘すべてのはからいをやめて、これが善いとかあれは悪いとか思わず、これは良しであれはおかしいとか考えないことだ。考え事をせず、なにかを心に念じることもせず、仏になろうとしてはならない。’ということである。私はこれがなかなか分からず、長らく‘堕落禅’に陥ったことがあった。すなわち、妄想ばかりこいでいる始末だったということだ。今だから言えることだが、こうなった理由は、求めるものは何なのかがはっきりしていなかったことにあった。
では、求めるものは何なのか。それは、「兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底、如何(いかん)が思量せん。非思量。」(『普勧坐禅儀』)ということである。すなわち、‘動かざること山のごとくどっしりと坐禅の姿勢を正しく保って、考え事することなく坐禅せよ。’ということである。要するに、考え事することなく正しい坐禅の姿勢だけ求めよ、ということだ。
草薙龍瞬師は、人の認識構造には三層があり、外側から内に向かって、判断・感情・感覚となっていると言う。私は経験からそう思う。そこからいえることは、判断とか感情とかいう‘思い’以前の世界である感覚に焦点をあてることが必須だということだ。正しい座相に感覚をフォーカスして、それだけを意識していくということである。つまり、今やっているところの骨組みと筋肉にすべての心を置くということだ。思い量り(理性も然り)以前、感情以前のありようである感覚に心することを求めなければならないということだと私は理解している。
この坐禅に対する取り組み方を敷衍すれば、念仏なら念仏のみ、祈りなら祈りのみ、歩くなら歩くのみ、掃除なら掃除のみ等々と展開される。私の好きな『証道歌』で言えば、「当所を離れず、常に湛然」ということだ。このことを道元禅師は美しいことばで次のように歌っている。
「聞くままに また心なき 身にしあらば 己れなりけり 軒の玉水」
思い以前の一点のみを求め続ける姿勢こそが「無所得」であり、そこからおのずと「無所得」が実は既に無量無辺の所得という豊穣な世界に自分が存在せしめられていることを知らされる。これを『普勧坐禅儀』では、「宝蔵おのずから開けて受用如意ならん」と表現している。
求めることが悪いのではなく、何を求めるかが問題だと思っている。

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