96.イエスと十字架  神谷湛然 記

/  96.イエスと十字架

 イエスの最後は十字架での処刑だったといわれる。当時のイスラエルでは最も残酷な処刑とされ、国家権力や体制に対する反逆の罪を犯した者が対象だったようである。イエスは、ユダヤ社会の伝統や慣習、ひいては国王や祭祀者という権力や権威に抗してすべては平等だと主張し、そしてユダヤ社会の精神的核心であった律法主義のバリサイ派を痛烈に批判したために、国家反逆罪にあたるとして捕らえられた。そのために十字架刑に処せられたとされる。私は、イエスがその十字架上で発したとされる最後の言葉を考えてみたいと思う。
 新約聖書には、イエスの伝記を記したとされる福音書が四つある。そのうち、マルコ伝とマタイ伝にはイエスの最後の言葉は、
 「エロイ、エロイ、エマ、サクバタニ」(マタイ伝では「エロイ」が「エリ」となっている)
である。この箇所だけアラブル語となっている。訳せば、‘わが神、わが神、どうして私を見捨てなさるのですか’となるようだ。
 ルカ伝では、
 「父よ、私の魂を御手にゆだねます」となっている。マルコ伝やマタイ伝にあるあの‘悲壮な’言葉は記されていない。
 ヨハネ伝では、「渇く」と「成し遂げられた(‘完成せられた’と訳するのもある)」となっている。
 伝記はある人の生涯を事実にのっとって記述するというよいも、作者の思いや主観、見方から記されるのが大概だと思っている。だから、私はそれぞれの伝記を私なりの切口で解釈してみようと思う。
 マルコ伝とマタイ伝にある最後の言葉、「わが神、わが神、どうして私を見捨てなさるのですか」は、午後3時に息を引き取る直前に絶叫して発せられたとされる。それまで当日の朝の9時から十字架にかえられてからひたすら沈黙されていたという。見物に来た群衆のほとんどから嘲笑と嘲りを浴びせられただけでなく、同時に十字架にかけられていた隣の罪人からも罵声された情景が描かれている。そして午後の12時から空が暗くなりはじめて午後3時には暗闇だったという。この情景は終末の世界のようだ。私は、これは自分勝手にものごとを分け隔てして善悪や是非を言い立てる煩悩にまみれた人間世界を形容しているように感じる。その暗闇を打ち破るためには、神は人の神への願いを完全に断念させて神の御手にすべてをゆだねさせる必要があったのだと私は解釈する。だからこそ、人の子としてのイエスが神への救いを求める願いさえもはからいだとして神は拒絶されたのだと思う。人の子イエスとしては、神は私の願いを一切聞いて下されないのだと悟った言葉が‘どうして私を見捨てなさるのか’となったのだと思う。神への願いを一切断ち切った時き、遠くエルサレムにある神殿の膜が縦に真っ二つに裂けたという。その膜は大祭祀者や権力者などのほんの一部の特定の人しか入れない至聖所(しせいじょ)と大勢の民衆の礼拝所を分け隔てするものだった。その分け隔てが破れて一つになったということは、神の前においては国王も祭祀者も民衆もすべては神の前で平等だということの象徴だと思う。イエスの処刑を見守った百人隊長(数少ないイエスの理解者とされる)がイエスの死を見て「まことに、この方は神の子であった」と思わずに口にしたのは、神への願いをも放ち捨てて神の御手にゆだね切ったことを讃嘆されたのではないだろうかと思う。そのことを、ヨハネ伝では、人の思いの介在なく神によって神の愛が純粋に実現したゆえに「成し遂げられた」と記され、ルカ伝では、すべてを神の御心のままにまかせるゆえに、「父よ、私の魂を御手にゆだねます」と記されたのだと思う。
 これら四つの福音書のイエスの最後の言葉は表現が違っているだけで、本意は‘神の御心のままに’という点で一致していると私は理解する。
 教会では、イエスは身代わりとなって私たち人間の一切の罪を背負ってつぐなって下さったのだと解釈しているのが一般のようである。だから人はイエスの死によって罪が贖われたのだという。ユダヤやイスラムの世界では羊とかヤギを生贄として神に捧げることによって罪が許されるという考えがある。この償いの思想は生贄が動物であろうが人間であろうが償いを求める人には無傷だということだ。身代わり思想は自己への切り込みを避けているように私には見受けられる。自分自身がイエスのように自分すべてを神の御手にゆだねることをしない限り、‘原罪’は解消されないのではないかと思う。
 道元禅師は、仏のいえになげいれて只管打坐しなさいと言った。親鸞上人は、はからいを捨てて弥陀の本願にまかせるしかないと言った。イエスの言う神を仏とか阿弥陀に置き換えることもできるのではないだろうか。
 あれかこれかと見解を立てて分け隔てする人間の狭い了見を打破するためには、自分の思いやはからいを投げうって無心に祈り、虚心に行ずるということだと諭しているのではないだろうか。
 アメリカのトランプ大統領は神に命ぜられてイランに攻撃するのだと言っているようだ。トランプに命じる神の言葉は誰が聞いたのだろうか。教会の権威者なのかトランプ自身なのか、いずれにしろその言葉を聞いたのは人間であることは確かだ。そんな人に聞けるような神の言葉はないはずだ。なぜなら神の言葉は、分け隔てせず、自分に相いれない人をも合わせてすべては神の子だと知る人のみが聞ける言葉だからである。トランプの言う‘神’は自分の‘欲望’にしか過ぎないことを指摘したいと思う。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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