/ 38.四聖諦ということ
仏教用語に四聖諦(ししょうたい)という言葉がある。四諦(したい)とか、その中身をとって苦集滅道諦(くじゅうめつどうたい)とも呼ばれる。
四聖諦とは四つの聖なる真実という意味である。その四つの真実を、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)としている。その意味について私なりに述べてみようと思う。
まず苦諦とは、この世は自分の思い通りにならない苦悩が絶えないということである。これを詳しくみて、生老病死の四苦と愛別離苦・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)の四つをあわせて四苦八苦としている。楽しいことや快いこともあり、思い通りにいくこともあるが、苦しみ悩みのほうが断然多いと多くの人は感じているように思う。少なくとも私の周りを見てもそう実感する。思い通りにならないありさまに苦悩する人々の姿に、この世は「一切皆苦」と仏は喝破されたのだと思う。
次に、集諦とはその苦の原因についての真理である。苦の原因は煩悩だと仏教一般ではよくいわれている。悩みに煩うことだというが、これでは‘苦悩’と同義語ではないのかと私には思ってしまう。思い通りにならないことが苦悩とするならば、思い通りにしようとする働きが問題となるはずである。では、思い通りにしようとする働きとは何か。それは、善悪や是非・優劣などの価値判断を立てて自分にとって都合のいいものを摘まみ上げ、その摘まみ上げたものに執着して自分の望みを果たそうとすることだと私はみる。これを我欲とか我執とも呼ばれるものだと考える。取捨選択して、これはいいものだ、すぐれたものだとして取り上げ、あれはよくないものだ、劣ったものだとして排除するところに苦の原因があるというべきだと思う。なにがいいのか、なにが悪いのか、そんなものは最初からないはずである。ああだこうだとなにかを決めつけてそれに基づいて行動したがる人間の性(さが)にこそ問題があるということである。だから、迷いを捨てて悟りを得るというのも、取捨選択してなんとか‘うまいメシ’にありつけたいという我欲・我執に他ならないということである。「諸行無常 諸法無我」とは、なにか決まった観念や概念はなく、いろいろな関わり合いのなかで生じているだけだということである。これが次の滅諦で展開される。
なお、苦の原因を欲望と解釈する人がいるが、それは間違いである。食欲・睡眠欲・性欲という生理的欲求をも否定することになり、これでは生存できないし、人類というのも滅亡してしまうことになる。また、欲望をなくそうとするのも一つの欲望といわざるを得ない。中世日本に、飲み食いもせずに暗い洞窟のなかで坐禅して生きながら息絶えることを即身成仏だとして実践した修行者がいたが、それも欲望を滅しようとする欲望に過ぎないことに彼らは気づいていなかった。酒が悪いのではない、酒に飲まれるのが悪いのである。それと同じように、欲望が悪いのではなく、ある欲望をこれはいいものだとして取り上げてそれに執着してその欲望に飲まれることが問題なのだ。欲望は本来、よく生きるためになくてはならないものであるはずである。それを自分勝手な我欲・我執によって汚されていることが人の不幸を生んでいるということを認識する必要があると思っている。
滅諦とは、苦の原因である我執を滅する真理である。自分勝手な取捨選択や思い込みをやめたところに苦が滅せられるということである。自分の思いや観念を超えたところに苦悩からの解放があるということである。これを道元禅師は「善悪を思わす、是非を管することなかれ。心意識の運転をやめ、念相観の測量(しきりょう)をやめて、作仏を図ることなかれ」(普勧坐禅儀)といっている。念仏門では、自分のはからいを捨ててひたすら弥陀の本願にただ任せて念仏することを親鸞上人は説いている。キリスト教風にいえば、神の御心にゆだねて虚心に祈ることである。私たち人間の思いを超えたところに真実があり、その真実にやすらいだところに立ってはじめて、煩悩・妄執とかいわれる我執から解放されて欲望が自由自在なる生命の働きとなるのだということである。これを寂滅といい、この寂滅をもって楽となすと仏典はいう。
しかし、「空」と悟っても、「無自性」「縁起所生」と悟っれも、実践がなければただのお題目に過ぎず、いつかは色褪せてしまって物足らなくなることを感じたことがある。常に初心にたちかえって「只管」を実践いくのみだと言い聞かせている。その実践方法をつぎの道諦で触れよう。
最後の道諦は、滅諦するための方法・やり方があるということである。それを道元禅では「只管打坐(しかんたざ)としている。念仏門では「白木の念仏」としてただ念仏することをある念仏者は説いている。キリスト者のエックハルトは、なにも求めずなにも願わずにただ虚心に祈ることだと説いている。真実は私たちのちっぽけな頭のなかにあるのではなく、そのちっぽけな頭を超えたところにあると賢者はいう。その実践行によって、自分の狭い了見から解放されて、宇宙的視野に立ってものごとが見えてくるのだということである。自分の思いやはからいをやめて、ただひたすら坐禅の姿だけを狙っていく、なにか思いが出ようが観念が洗われようがそれにおかまいなくただ念仏し続ける。凡夫をやめて聖人になろうともせず、迷いから離れて悟りを得ようともせず、ただ行のみを丹丹と行じていくことこそに、苦からの解放がおのずから実現されるのだと信じている。

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