105.終戦記念日に思う  神谷湛然 記

/  105.終戦記念日に思う

 今年(2026年)の8月15日で81回目の終戦記念日を迎えた。中国や韓国では日本から解放されて独立を果たしたということで解放記念日とされる。日本とは正反対に、日本による抑圧と呪縛から解き放たれためでたい日とされる。特に韓国では光復節として日本帝国主義を弾劾して勝利を祝ってにぎやかにいろいろな催しがされる。
 第二次世界大戦が終結したのは1945年9月2日であるが、日本での終戦の日が8月15日なのは、8月10日に米・英・中の三国にポスダム宣言の無条件受諾を伝えて後の8月15日正午に天皇が終戦の詔書をラジオ放送を通じて発表された、いわゆる‘玉音放送’がなされたことをもってのゆえである。
 日本は、今日では「アジア・太平洋戦争」と定義される‘大東亜戦争’に敗者となり、中国・韓国は米英仏蘭中の連合国側に立って勝者となった。
 敗戦国のドイツと日本は終戦の日は沈痛な重々しい雰囲気で迎えるが、同じ敗戦国とされるイタリアでは終戦直前に市民がムッソリーニを人民裁判で処刑して、後にイタリア共和国の主体となった国民解放戦線をつくって終戦を迎えたので、むしろ明るい雰囲気だそうである。
 いつの時代でも勝者は留飲を下げ、敗者は打ちひしがれて反省される。‘勝てば官軍、敗れば賊軍’である。しかし、勝者となった米英仏蘭をはじめとする連合国は第二次大戦後にアジア・アフリカで占領していた広大な植民地を民族自決による独立運動で次々と失っていった。勝者もまた無傷ではいられなかったということだ。
 正義の戦争とか聖戦と銘打って何度も戦争がおこなわれてきた。実は正義でもなく、聖戦でもないのだが、自らの行為を正当化する口実に過ぎないことを歴史は暴いている。その戦争の根源は不信と独占欲ではないかと私は思う。不信があるからもそ、軍備を増強し、武力による威嚇をし、相手をわが物にしようとする業(ごう)ではないかと思う。
 今、高市政権はアメリカ・トランプ以上に中国を敵対視し、ロシアや北朝鮮とも対話姿勢すらもみせていない。これら三か国に対して不信を募らせて、それらに対する対抗策として核武装に準じる核共有を実現したいようである。核抑止論という今や過去の遺物でしかない核抑止論という‘防衛戦略’にこだわっているようである。なぜなら、核抑止論の破綻の実例を私たちは今、目にしているのである。それはイランとイスラエルの戦争である。核不拡散条約未加盟のイスラエルは以前から核兵器保有しているのではないかといわれている。それでもイスラエルは、イランから多数のミサイル攻撃を受けた。核弾頭でもってイランをどうして攻撃しようとしなかっただろうか。核でもって攻撃すれば、イランの同盟国であるロシアからの核による報復を恐れたのだろうか。核をもっても攻撃されることがあり、にもかかわらず核を使用できない現実を見るべきではないだろうか。核をもっても攻撃されることを直視すべきではないかろ思うのである。
 ペロポネソス戦争というのがあった。紀元前5世紀後半に海軍力を増強したアテナイと強力な陸軍を持つスパルタとのギリシアの覇権をめぐるポリス間の戦争である。この戦争でスパルタは勝利したのだが、長期にわたる戦争による疲弊でポリスは弱体化して北方にあるマケドニアに攻め込まれて併合されたのだった。戦争によって国力が衰退していった歴史なのだが、現在のアメリカも、ベトナム戦争・アフガン戦争・湾岸戦争・イラク戦争、そして今日のイランとの中東戦争と次々と戦争を繰り返して国力が衰退していく様を目にしている。戦争ほど人類にとって愚かしい行為はないと思う。
 相互信頼を醸成して和平と軍縮を進めることこそが人類の幸福をもたらすのではないだろうか。相手を挑発して軍拡にいそしむ高市政権には破滅へのカウントダウンを進めているようにしか私には見えないのである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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