22.思いについて  (神谷湛然 記)

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  22.思いについて

 私と同時期にある修行道場で一緒だったドイツ出身の出家者が坐禅中に沸き起こる思いについて彼が著した本で述べているくだりがあった。

 思いはちょうど草原で羊が草を食む風景のようなもので、それを無理に撃退しようとするものなら羊たちがかえって暴れ回って収拾がつかなくなってしまう。無理に追い払おうとするのではなくて高所からながめていれば羊たちはおとなしくたわむれ、自然と羊たちも消えていく。

 思いすなわち妄想を羊に譬えて述べたものであるが、私にはどこか気になって仕方ないところがある。曹洞宗のある流れの人のなかには、思いが出たら出たままに任せて、思いをなくそうとか追い払おうとかしないことだといっている人がいる。思いを手放して相手にしないことだという言い方をすることもある。しかし、私にはある面では正しいが別の面では誤っていると指摘したい。
 私はかって思いを思いでもって対処しようとしたことがあった。思いを思いで格闘して疲れ果てたことがあった。そういう意味では彼らのいうことは間違ってはいないといえる。しかし、思いを出るに任せてて、とすると、思いに引きづられて思いの大海に沈み込んでしまう危険性がある。私は、思いを出るに任せることだとして、坐禅の度ごとに妄想の‘映画’上映ショーのオンパレードが展開されてしまうという始末になったことがある。当然居眠りをよくこいだものである。思いの無放縦となったわけである。これこそが黙照禅の陥りやすい悪しき罠であろう。そういう意味では彼らの言い方は間違っていると言わざるを得ないのである。
 思いが出たら、出たままに任せる以前に、坐禅の姿勢が正しくなっているとか、呼吸やなんらかの身体動作などの身体感覚に立ち帰ることをいうべきである。思いを思いでもって対処するのではなく、身体感覚でもって対処するのである。思いは出るに任せて、ということの本当の意味は思いでもって対処しようとしてはならない、ということであるはずである。私ははじめて‘一息一捻り’を実行したとき、とくにゆっくり左右に腰を捻ったとき思いが簡単に自然とふっ切れるのを知って新鮮な驚きをもったことを今でも鮮明に覚えている。
 本来の黙照禅ないし曹洞禅の只管打坐の立場から立っていうならば、思いという妄想が起こったらすぐに坐相が歪んでいまいかチェックして正しい座相に立ち帰る作業を行うことだといわねばならないのである。思いのある坐禅は心がどこかに飛んでしまっている状態なのであるから、どこかに抜けているところが出ているはずである。法界定印の両親指が離れていないか、顎が上がっていないか、腰が抜けて背中が丸くなっていないか、目をつむっていないか、口がぱかんと開いていないか、身体が傾いていないか・・・。居眠りしている当人は居眠りしていることがわからずに居眠りをこいでいることがある。知らずに体が上下左右に揺アショカれている。それがまことに気持よいものである。かって居眠りの達人といわれた私がいうのだからまちがいはない。夢という思いの大海で舟をこいでいるようなものである。
 私の経験からすると、思いは息を書いているときによく現れる傾向があるようである。息を吐いているときは体がリラックスしやすいからであろう。日常でも、緊張した場面のとき大きく息を吐いてよけいな力を抜いて体と心を落ち着かせようとするのはよくあることである。息を吐いているときに思いが出ないように注意するだけでだいぶ思いに行きにくくなるはずである。思いが出たら心で払うのではなくて身体で払うのである。思いが出たら出たままに任せるとは、心でもって払おうとしないということであって思いに沈むとはいっていない。身体感覚に立ち帰って思いを切るべきである。そこがはっきりしていないと邪禅になりやすい怖れがある。
 永嘉大師の「証道歌」には‘真を求めず妄想を覗かず’という一句がある。思慮分別でもって取捨選択してはならないといっているはずである。この思いはよいからとっておこうとかあの思いはよくないからのけておこうとかではなく、いかなる思いもひっくるめて身体感覚に溶け込ませるということである。そのことによって‘覚え了して無一物’となるのである。‘本来自性天真仏’はいかなる思いも身体感覚に溶け込ませることによって得られる世界である。
 ‘天台の円頓ころがし’というフレーズが日本仏教界にある。既に仏であるから修行する必要はない、思いのままでよいのだということである。暴飲暴食・遊興・・・欲望の欲するままやっていいのだというわけである。宗教の本質を知らない者がよくやる手である。宗教は人間が生きた生命として生き生きとした人生を生きていけるようにしようとして生まれたものであるはずである。生き生きとした生命を本来持っている人間が頭のよけいな思いによって、つまり通念概念しがらみ思い込みという勝手な粉飾によって、歪められていることが多い。人類の過大に発達した大脳の負の産物である。宗教はその負の産物を正すことが務めだと私は考える。そのところをないがしろにして欲望の赴くままにすれば破滅にいたることは明白である。核爆弾はその行き着いたなれの果てであるといえる。人類がいや地球生命が生き残れるのか滅亡するのか、その瀬戸際に現在は立っている。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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