100.悉有ということ  神谷湛然 記

/  100.悉有ということ

 仏典に「一切衆生悉有仏性」という言葉がある。これを‘すべての生きとし生けるものは悉く仏となる性質をもっている’と解釈されているのが一般のようである。この解釈だと、ある人には煩悩というものによってせっかくの仏性が覆い隠されて仏とならないで‘悪人’となるとみているように感じる。この見方は仏教の本質から外れているように思う。
 私はこう解釈する。
 ‘すべての生きとし生けるものないし一切のものは悉く仏性そのものであり、仏性とは「空」であり「無自性」であり、無数の関わり合いのなかで生じている「縁起所生」である’と。
 「悉有」とは、虫けらであろうと悪人であろうとそこらにころがっている石ころであろうと、この宇宙一切合切が例外なく、空なる仏だということである。成仏とは、すでに空なる仏性の世界のありさまにくもりの目が晴れて「悉有」の事実に初めて気づかされたということである。仏というと、お寺の本尊のような仏像を思い浮かべる人は多いかもしれない。穏やかな顔の人を見て、あの人は仏さんみたいだということがある。‘善人’なる仏というイメージが歴史のなかで作られていったようである。実は不動明王のようなこわい顔をした憤怒の仏もあるのだが。優しかろうと恐ろしかろうと、すばらしかろうと情けなかろうと仏でないものはないということだ。あの‘大虐殺者’とよくいわれるヒトラーさえも、‘わがままやりたい放題’と批判されることの多いトランプ米大統領も、仏であり、空であるということだ。しかし彼らは自分が空なる仏だということに気づいてはいない。自分のちっぽけな頭で自分が一番偉大だと自惚れ、他者を侮蔑して虐げている。せっかくすでに仏性である自分を汚して我欲・我執を真実なる実在物と思い込んで空なる世界を荒し回っているようだ。そういうような人が多いのが世の中ということかもしれない。巨大化した我執の行き着く先は自滅であることを歴史は教えているように思う。そう言う私も、我執がもたげてきて勝手な尺度を持ち込んでものごとを決めつけてしまうことがある。常に回光返照(えこうへんしょう)を怠らないよう自分に言い聞かせている。
 ところで、煩悩を悪なる実在物とみている人がいるようである。実は、真っ青な大空に急に湧きたつ雲のように、煩悩もなにかの縁によってむらむらと湧きおこる感情や思いが形となって現れたものと考えている。‘形をなす’とは、もともと存在しないとことに善悪や是非・優劣などの二つに分ける価値判断や分別を立ててうまいところに転がりたいというアタマを持つということである。金持ちだろうと貧乏だろうと、地位があろうとなかろうと、能力があろうとなかろうと、老若男女関係なく、それぞれが‘神の栄光のあらわれ’だということである。快感は快感で終わり、苦しいは苦しいで終わり、うまいはうまいで終わり、痛いは痛いで終わりである。形づけなければ、煩悩は生命活動の一環だといえないだろうか。維摩経に「煩悩を除かずして涅槃に入る」といっている。私たちは煩悩ぐるみで本来、空なる仏性だと仏典はいっているのだと思う。
 「悉有」と同じ意味の言葉が聖書にある。「出エジプト記」には、神とは「有りて在るもの」と記されている。分け隔てなく、一切合と切が宇宙生命ならざるものはないといっている。すべてをひっくるめて‘一切は是なり’とと喝破している。洋の東西を問わず、行き着く真理はまことに同じだと思わずにはいられない。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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