/ 39.「聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦」を考える
観音経普門品偈の冒頭あたりに、
「聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦」
という語句がある。
サッと読み流してしまうような短い語句である。しかし、この語句は、以降に説かれる「念彼観音力」のさまざまな働きをまとめた要点のようなものである。それでも、多くの人はなにか奇跡めいたイメージがして現実離れしていると思いやすいのではないかと思われる。そのイメージを払拭すべく、私はこの「聞名及見身・・・」を考えてみたいと思う。
まず、「聞名及見身」である。「名」とは観世音菩薩ということであるが、私は唐の玄奘三蔵にならって‘観自在’としたいと思う。なぜなら、自在なる働きを観音経は叙述しているからである。その自在なる働きを観自在と名づけたいと思う。「身」とは観自在の実体、すなわち、自在なる働きが展開されているこの世界のありさまということである。わかりやすく言えば、自在なる働きを聞くとか自在なる働きを目にするということである。その自在なる働きはあらゆるところに行き渡っている。そよ風に揺れる木ずれの音、スズムシやコオロギの虫の声、小鳥のさえずり、犬の吠え声、轟く雷鳴、売り買いする市井のかしましい声々・・・など種々雑多の音。春の花、新緑・もみじ・冬雪の山、ひろびろと広がる青い海、吹きすさぶ冬の海、街の風景、立つ電信柱、満点の星々・・・さまざまな姿。これらずべてが自在なる働きなる観自在だということである。
次に、「心念不空過」である。‘むなしく過ごさずして心に念じる’と書き下しできようか。観音経冒頭にある「一心称名」がそれに相当するとみなせるかもしれない。しかし、サンスクリット原典にはそれに当たる語句はないようである。漢訳した鳩摩羅什の入れ込んだ語句のようである。私は、「心念不空過」は、おのれ自身を空しくして、ただひたすら「聞名及見身」することだと解釈する。善悪や是非を判断せず、いろいろな考え事をやめ、何かを心に念じるとか何かすばらしい姿を観相するとかすることもなく、仏になろうとする意図も捨てて、ただ「聞名及見身」することを「心念不空過」とされたのだと読む。「不空過」とは、怠けてだらだら時を過ごすという意味ではなくて、善悪・是非判断や思い計りなどの一切のはからいや思い量りをやめて無心になることだという意味のはずだと思う。これはまさしく、道元禅師の詠まれた次の和歌になるのではないかと思う。
「聞くままに また心なき身にしあれば おのれなりけり 軒の玉水」
「見るままに また心なき身にしあれば 見るというだけ 時の盗人」
それをもっと手短に口語で歌った俳句がある。
「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」
そのままをそのままで、ということを見事にたった十二の音にまとめたものである。
なにの思い量りやはからいもなく、そのものをそのものとしてただ聞く、そのものをそのものとしてただ見る、そういうことを「聞名及見身 心念不空過」と言っているのではないだろうか。
こだわるべきものはもともとなく、すべては縁によって生じ縁によって消えていく。‘諸行無常 諸法無我’、無自性、因縁所生のこの世界である。観音経はプラス指向なことばでもって、世界は自由自在なる働き、すなわち観自在がくりひろげられているのだと語りかけている。そういう世界のありようと一体となったとき、「能滅諸有苦」するのだという。その「能滅諸有苦」をこれから考えてみたいと思う。
まず「苦」とはなにかということである。釈尊は、自分の思い通りにならないことを「苦」としている。「諸行無常 諸法無我」なる世のならいにさからう人には「一切皆苦」と断じている。裏をかえせば、「諸行無常 諸法無我」の理に順じた人には「苦」はないということになる。そんなはずはない、私は苦労ばかりの人生だぞと言う人がいる。楽しいことはなにもなかった、苦労ばかり、よく働いたなあと言い残して亡くなっていった人を身近に知っている。釈尊のいう生老病死の四苦である。注意すべきは、思い通りにならない人生、老いたくないのに老いてアタマも体も弱っていく苦悩、かかりたくない病気になった苦悩、いつきあは訪れる死への恐怖に苦悩する「苦」だということである。私も若くして視覚障害になってヤッサモッサして苦悩した体験を持つ。共通点は、他と比較したり、過去と比べたりなどして現状を受け入れたくないということだ。そのままをそのままとして味わえるならば、富んでよし、貧しくてよし、若くしてよし、老いてよし、病気になれば病気とつきあう、いつかは死んでいくこの身ならば今を今として今を生きようという心がけになるはずである。現状を受け入れてそこから人生を切り開いていく働きが、「能滅諸有苦」だということである。現状を否定したり現状から逃げようとしたりすることを「苦」と釈尊は言っているのではないだろうか。ただし、現状を受け入れたからといってその現状にこだわることをもまた、「苦」だと釈尊は言っている。不変なる現状はないからである。
一回限りのこの人生である。‘行く雲 流れる水’のごとく、愉快に人生を謳歌したいものである。

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