/ 40.「妄想を除かず 真を求めず」を考える
中国・唐代に活躍した永佳大師の残された『証道歌』の冒頭にある「君見ずや 絶学無為の閑道人」の語句に続けて、「妄想を除かず 真を求めず」という語句がある。その語句について誤った解釈が何件か散見されるので、この稿でその語句の意味について考えてみたいと思う。
なぜ、「絶学無為の閑道人」に続けて‘妄想を除くこともせず、真理を求めることもしない’といわれたのであろうか。思考停止して‘デクの棒’になることをいうのだろうか。それならば植物人間が一番いいことになるのではないだろうか。それとも、‘なにが妄想でなにが真理か、そんなものはどうでもよいのだ、欲望の赴くままに生きればよいのだ’ということなのだろうか。‘浮き世の泥にまみれながらの修行です。’と意訳した人がいる。しかしこれは、天台の‘円頓コロガシ’のように思われて、欲望礼賛主義のように理解されやすい言い方のように思われる。仏教に関わる人たちの間で、‘あるがまま’を好んで使われることがあるが、この身このままでよいのだとするならば、なぜ修行するのかと若し道元禅師が比叡山での修行生活に悩まれて抱いた疑問になるのではないだろうか。
道元禅師の『普勧坐禅儀』に次のことばがある。
「善悪を思わず、是非を管することなかれ。心意識の運転をやめ、念相観の測測量(しきりょう)をやめて、作仏を図ることなかれ。」
‘善悪・是非判断することなく、考え事をやめ、何かを心に念じたり何かを心に浮かべて観相してはいけない。さらに、仏になろうとすつこともしてはならない。’ということである。
これは、坐禅における注意点を述べられたものであるが、思量分別やはからいをやめて坐禅そのものの姿勢にすべてをゆだねよ、ということである。善悪や是非などの人間の勝手な思慮分月や価値判断をやめ、思ひはからいを捨てて宇宙いっぱいのいのちにまかせきった人を「絶学無為の閑道人」とされたはずである。あらゆる尺度や観念は人間のアタマが作り出したものだ。そういう観念を捨てて、そのものをそのものとして見る姿勢こそが真理に生きるということではないだろうか。そして、そのものは、諸行無常にして諸法無我であり、時々刻々転変して一切空である。そのものという凝り固まったものはないということである。『参同契』に、「万物おのづから功あり、まさに用と処を言うべし。」とある。現代語訳すれば、‘すべてのものにはそれぞれ自ずから意義がある。問題は、まさにその機能をどう働き出させるのか、ふさわしいあり方は何かを、考えるべきだ。’となろうか。ちょうど、調理には火はとても約に立つようなものだ。
なにが妄想で、なにが真理なのかをアタマでこねくり廻している限り、すべては間違いだということである。
「聞くままに また心なき身にしあれば おのれなりけり 軒の玉水」
という道元禅師の道歌がある。純粋な目で、そのものに出会えている人こそが、「絶学無為の閑道人」であり、そのものをそのものとして見ることのできる人には、なにが妄想でなにが真理なのかは相対的なもので意味がない。概念・観念・慣習・習慣・風俗から自由であり、そのものをそのものとして見て時々刻々に判断して行動するからである。修行とは、思い込みや価値判断を捨てて、そのものをそのものとして見るための練習だと思っている。
欲望丸出しを全面肯定している限り、いつまでたっても人間という狭い器のなかでもがいていることだろう。かって、師匠から、得度するということは一度死ぬことだといわれたことがあった。今にして思う名言だと感じ入っている。

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